亡き劇作家が「クミの五月」に込めたもの(3)〜5・18は終わらない〜

宋基淑『光州の五月』を読んでほしい。けど・・・

 映画「タクシー運転手」をめぐっては、さまざまな媒体で多くの映画評を目にしますが、1980年5月のあの時あの場にいた人びとが、何をその目で見、経験し、その後どんな人生を歩んできたか、またその後景をなす韓国現代史ないし民主化運動史をきちんと踏まえた論評なり感想は、あまり見当たらないようです。日々更新される新たな情報、資料や文献を拠り所にするのは決して悪いことではないのですが、その時代の空気を孕んだ同時代史の視点で書かれた古い文献がほとんど顧みられないことに、正直とてもがっかりしています。それは私がアカデミアの人間だから、ことさらそう感じるのかもしれません。しかし重ねて言いますが、紙であれネットであれ、ひいてはフェイクとされるような媒体であれ、受け手にとって、そこに書かれてあることは「文字という権威」となりうる。この状態を放置するのはそれを認めるに等しいことです。

 わけても歯痒く思われたのは、宋基淑『光州の五月』金富軾『失われた記憶を求めて』など、光州抗争とその後の民主化闘争を内側で体験した人たちの、さほど古くもない日本語訳の本ですら、ほとんど参照されていないことです。

ここでは小説『光州の五月』を取り上げたいと思います。作者の宋基淑は韓国文壇の重鎮にして、全南大教授でもあった人物です。彼は光州抗争を市民収拾委員の立場から経験しました。その後、事件のプロセスと被害状況を綿密に調査し、被害者や目撃者たちを訪ね歩いては口述資料を集め、『光州五月民衆抗争史料全集』(1990年)という膨大な証言集を編纂するのに中心的な役割をはたしました。私は1998年5月に全南大5・18研究所が主催した講演会で「外国人の目からみた5・18」というテーマで話をしたことがありますが、その時の初代所長が宋教授でした。後で知ったところでは、この時すでに『五月の微笑』(原題)を構想されていたそうです。

 物語を織りなすのは「心の傷」とともに生きる光州の人びとです。主人公は、恋人とその姉を戒厳軍兵士に暴行された鄭燦宇。姉はその出来事によって精神を病み、入水自殺する。妹は、姉が遺した私生児の甥と年老いた祖母を養うため、大学進学をあきらめ、恋人・燦宇との別離を決意する。一方、燦宇が勤める会社の関係者にも、人知れず心に傷を負う人物がいます。光州問題をめぐる恋人との口論がもとで破談となり、酒に溺れ、独身を通してきたものの、いまだ事件へのわだかまりを抱き続けながら、酒に酔って溺死した元兵士は、燦宇の会社の元請け会社の理事でした。

燦宇は次のように考えをめぐらします。

 

全斗煥らはまず、軍人の人格を破壊し、そして光州の人々の肉体を破壊したのだ。・・・私たちは攻守団(*)も全斗煥らと同じように憎悪するが、実は彼らも人格を破壊された単純な道具に過ぎなかったのだ。彼らを憎悪するのは光州市民を撃った銃や、市民を捕まえ乗せて走った自動車などの道具を憎悪するのと同じことなのだ。この点をはっきり直視し、認識してこそ光州虐殺者の実態を明らかにすることができる。」

 

 先日の「アナザーストーリーズ」に取り上げられた二人の元兵士は、そうした全斗煥らによる人格破壊を自ら克服し、贖罪意識へと至り、それを新たな生き方に転換させた人たちでした。彼らもまた「人格を破壊された道具」であり、その意味で光州虐殺の「被害者」でもあったことは言を俟ちません。

だが、そこで思考停止してしまって、はたしてよいのだろうか? 朴暁善が「クミの五月」を通して、また彼自身の語りを通して問いかけたのはそのことでした。実は『光州の五月』でも、これと同じ問いが物語を貫くもう一つのテーマになっています。

それは、「クミの五月」では「あの怨恨の殺人魔、吸血鬼全斗煥を、極悪非道の維新残党どもを、処断し」などの台詞として、朴氏の語りでは「小隊長クラス以上の処罰問題」として、何度も繰り返し強調されてきたことと通底するテーマです。

ただ非常に残念なのは、日本語版『光州の五月』には「攻守団」(*)をはじめ、誤訳、誤植が多いとされることです。在日朝鮮人作家の黄英治氏からその一つ一つについてご教示を受けましたが(黄氏からの私信による)、ここには敢えて列挙しません。要は、そうしたハンディをおしてでも、この作品はなんとしてでも、広く読まれてほしいと願っているのです。

 

(註)「攻守団」は同じ「공수단」と発音・表記される「空輸団」(=「空挺部隊」)の誤訳と考えられる。

 

アナザーストーリーズは終わらない

 宋基淑がこの小説を構想したきっかけは、1996年10月、バス運転手の金琦緒が、金九を暗殺した安斗熙を「処断」した事件にあったそうです。金九は米軍政下で、政敵の李承晩アメリカの支援により南だけで単独国家を建設しようとする動きに反対して、南北統一の立場から金日成との協議を模索しようとして、1949年に暗殺された抗日独立運動家です。逮捕された安斗熙は終身刑を受けますが、李承晩大統領により減刑され、一年にも満たずに釈放されました。金琦緒は殺害の動機を次のように語ります。

「あのような人物がいまだに生きているということが恥ずかしかったからです。」

 このニュースを見た宋基淑は、安斗熙を光州抗争の責任者たちの姿に重ね合わせます。

 金琦緒事件の翌年に行われた大統領選挙では、どの候補者も「地域感情の解消」を理由に競って全斗煥盧泰愚の赦免を公約に掲げ、実際、金大中当選者が最初にやったのは二人をクリスマス恩赦で釈放することでした。宋基淑は、「現実は私よりも先に小説を作り上げていたわけだ」として、この小説の執筆にとりかかるのです。

 ここで前々回の記事

gwangju.hatenablog.com

で紹介した朴暁善の、金大中に対する憤りを想起していただきたいのです。

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ホン・ソンダム作、連作「五月」、ホン氏は朴暁善とともに芸術班として活動した元市民軍

「光州市民に対し『全斗煥を赦免しますか、しませんか?』とただの一度も尋ねることなく赦免した。金大中氏は5・18を知らない。彼は5・18を知る人ではない。」

 

 さらに全斗煥の指揮下にあった元軍人たちが退役後、青松監護所に大量に特別採用され、入所者たちを虐待していることに触れながら、次のように語っていることも。

 

「いまだにそういう連中が、人間の野蛮性の具象のごとき連中が、5・18への罪責感をもつどころか、青松監護所の看守として生き延びている。そういった現実との闘いが必要なのだ。」

 

 これは宋基淑と全く同じ問題意識です。

しかし、この5・18を内在的に経験した二人の人物から絞り出された問いかけを、その後の人びとは真摯に受け止めてきたといえるだろうか? 

また、より客観的に物事が見える立場にあるはずの私たち第三者はどうなのか?

「アナザーストーリーズ」での元戒厳軍兵士をめぐる切り取り方と描き方は、「5・18への罪責感をもつどころか、青松監護所として生き延びている」絶対多数の存在を、あたかも「無かったこと」のように扱っています。むろん、ここまで真実に肉薄した証言を記録し、放映したことに対しては素直に、高く評価したいと思います。これこそ、テレビにしかできない仕事です。しかし私が言いたいのは「有ったことを無かったことのように扱う」こと、あるいは公共放送として流す以上、「無知」は罪だ、ということなのです。

宋基淑の小説の主人公は、金琦緒が47年間もかけて安斗熙を「処断」したことに倣い、「行こう。私にも道は一つしかない」と、自身も銃を手にします。しかし物語は、まだ彼が引き金も引かないうちに閉じられてしまう。つまり燦宇が狙いすました銃口は、今もなお、全斗煥ら5・18の責任者たちに突きつけられている、という暗示です。

物語は、5・18は、それにまつわるアナザーストーリーズは、「心の傷」とともに生きる人びとにとって、いまだ終わってはいないのです。

前出の黄英治氏は、『光州の五月』の書評を次のような文章で結んでいます(『民族時報』第1140号)。

 

「現実に、光州大虐殺の命令者である全斗煥盧泰愚元大統領は赦免・復権され、前職大統領として、新大統領の就任式には欠かさずひな壇に座るという、どうしようもない現実がある。そして、真の加害者である米国がある。彼らの赦免を、被害者たちは認めたのか。彼らは加害責任をとったのか。とっていないなら、どうとらせるのか。

 小説はいったん幕を閉じる。残されるのは、私たち読者である。」

 

「加害者も被害者」なのか?

 朴暁善は、「加害者もある意味では被害者ではないか」とは、知識人の欺瞞だと喝破しました。民主化運動勢力の中でそうした言説が生じる端緒の一例として、80年代半ばの学生運動家たちが経験した拘置所暮らしについて触れておきます(*)。

それまで大学生という同齢で均質的な集団の中にいた彼らは、拘置所で一般囚と同房になることで初めて「他者」を知り、「理論的に学んだ韓国社会の矛盾を監獄に入ってきた人の個別の話を通してより具体的に確認することになる」。そこに「堕落した民衆」の実相を発見した彼らは、理念を超え、真に「民衆を愛する」ことの意味を突きつけられる。しかし拘置所暮らしを経るにつれ、「支配イデオロギーによって堕落・歪曲された」存在として、すなわち犯罪者=加害者でありながら同時に韓国社会の被害者として、そうした人びとの実存を受け止めるようになるといいます。

彼らはまた、時に威圧的で暴力的な「矯導官」(看守)たちにも出会うことになります。再び「民衆を愛する」ことの意味を求めながら、戒厳軍兵士と同様、権力に連なって暴力を行使する拘置所の末端官吏たちに対してさえも、次のように結論するのです。

 

「我々は、この矛盾構造の中でその人が担っている役割を憎むのです。」

 

 これは前出の戒厳軍兵士に寄せた燦宇の独白、「彼らを憎悪するのは光州市民を撃った銃や、市民を捕まえ乗せて走った自動車などの道具を憎悪するのと同じことなのだ」と、同じことを言っています。しかし、学生運動家たちの思索はそこで終わりです。朴暁善の言葉を借りれば、「5・18を経験しなかった人には5・18はわからない」からです。5・18を真にわからない者たちは、5・18を自分たちが見たい見方でまなざします。また5・18を経験しなかった者たちは、戒厳軍の暴虐を体で知っている者たちではなく、軍服の中の個々の兵士たちを自分たちが見たい見方でまなざそうとするのです。

 前述の拘置所暮らしのエピソードは86~7年頃に書かれた当事者の手記によるものです。朴暁善が劇団員たちの話から、「クミの五月」を観劇したあの金大中でさえ、実は「5・18のことなど全然わかっちゃいなかったんだ」と思い知るのは、その2~3年後のこと。きっと彼には「加害者も(社会の矛盾構造による)被害者」とする、5・18を経験しなかった知識人たちの、頭でっかちの欺瞞が痛いほど突き刺さったにちがいない。あの時あの場で起きた出来事の中心にいた者たちの耳に、時間的にも空間的にも隔たったところから発せられる「加害者も被害者」という言葉は、どんなふうに響いたか。戯曲「クミの五月」は88年、そんなさなかに完成されたのでした。

 劇中、主人公のジョンヨンは武器返納を迫る収拾委員たちとの激論の果て、「これ以上の混乱に対しては、きみらがすべて責任を負うんだ」と切り捨てた委員長に向かい、次のように叫びます。

 

「責任など怖くはない。怖いのは歴史の審判です!」

 

 これはあの時あの場にいて迫りくる権力の暴虐に立ち向かい、孤軍奮闘した人間たちにしか発しえない叫び。この言葉が全てを物語っているのではないでしょうか。

 だが、時間と空間を隔てて、これを取り囲む者たちには、あの金大中にさえ、響かない。中心から最も遠いところにいる私たちには、なおのこと響かない。それどころか、良心的であろうとすればするほど欺瞞に陥ってしまう。なぜならこの町(光州)の、この国(韓国)の、歴史の審判とはどこまでも無縁の存在だから。

それでもなお朴暁善が追い求め続けた人間存在の普遍性、終わらない「野蛮性」への問いを投げかけ続けていく義務が、私たちには残されている。私たち一人一人は、人類の歴史の審判から誰もが自由ではないからです。

「アナザーストーリーズ」を見ながら、二つ目に、そんなことを思いました。

 

(註)チョン・インチョル(仁科健一訳)「韓国学生運動の抵抗のエッセンス」和田春樹・梶村秀樹編『韓国民衆-「新しい社会」へ』勁草書房、1987年

亡き劇作家が「クミの五月」に込めたもの(2)〜5・18は終わらない〜

「アナザーストーリーズ」について

 6月12日、BS-NHK

www.nhk.or.jp

光州事件特集が放映されました(18日再放送)。遡ること10年前、映画「光州5・18」の日本公開に先立ち、光州事件を扱ったドキュメンタリー番組を作りたいと民放局から協力依頼を受けましたが、どこかから圧力があったとかで立ち消えになってしまいました。2010年6月、光州抗争30周年を期してBS-NHK

www2.nhk.or.jp

を放映した際には、制作に協力しましたが、じっくりと時間をかけながら徹底的に水面下で、局内でも秘密裏に事が運ばれたと聞いています。プロデューサーの話では、関係者たちがまだ健在で、生半可に光州での経験を「歴史化」できる段階にはなかったことと、それぞれに思惑を帯びた人びとが多方面から足を引っ張りあい、企画を頓挫させる危険性があったからだといいます。その意味では、まるで

klockworx-asia.com

1987arutatakai-movie.com

の日本公開に照準を合わせたかのようなタイミングで、「アナザーストーリーズ」の放映が迅速になされたことは、すでに40年近い歳月と、文在寅の民主化政権を誕生させた「キャンドル革命」をへたことで、5・18にまつわるもろもろの足かせと禁忌が薄まったことを示しているのでしょう。

 何にせよ、情報の風通しがよくなるのは喜ぶべきこと。しかし私にはこの番組を「見たくない」という一抹の思いもありました。視聴中は新たな証言者たちの登場とその突っ込んだ内容に感心し、限られた時間枠の中でよくまとめたなと、どちらかといえば肯定的に眺めていました。ところが番組を見終わって、しばらく間をおくにつれ、じわじわと否定的感想の方が勝ってきたのです。ちょうど前回のブログ記事-インタビューからわずか二か月後に亡くなった「クミの五月」の作者・朴暁善氏の「肉声」を20年ぶりに聴き直しながら考えたこと-を書いている最中でした。ここで朴氏が語った言葉に立ち止まらずして、韓国の「今」は理解できないのではないかとさえ思いながら、改めて「アナザーストーリーズ」のことを思い返すと、なんともいえずモヤモヤするのです。

 一言でいえば、「光州5・18」「タクシー運転手」から、いきなり「1987」なのではなく、また1987年6月29日の「漸進的民主化」と30年後の現在の民主化とは似て非なるものだということ、それでもなお「5・18は終わらない」ということなのです。番組ではそこの部分がきれいさっぱりと削ぎ落とされ、妙にまとまりのよい「感動作」に仕上がっていました。私の心には、ずっとざらざらしたものが残りました。

 これから数回にわたって、「5・18は終わらない」とはどういうことかを、ひとつひとつあげていきながら、(専門家としてのプライドをかけて)この番組に対しての批判的検討を加えていきます。もちろん限られた時間枠での放送ですから、“ないものねだり”だという誹りは甘んじて受けましょう。けれども番組が「語らなかったこと」の数々は、光州抗争の歴史を知らない一般の視聴者にとって、それが「無かったこと」として認識されるのと同然なのではないでしょうか。厳然としてあった/ある事実が、そのまま「無かったこと」として人口に膾炙するなら、それは歴史に対する冒涜だと思うのです。だから私はそこの部分を補うような話を、これから数回にわたって紹介していこうと考えています。

 

「心の傷」と生きる人びと

 今から16年前のこと。光州抗争20周年をすぎて、光州が「人権聖地」としてセルフ・ブランディングを整えつつあった頃、Jという人物と出会いました。光州・全羅道の歴史と文化に根ざす観光資源を探求し、実践に移す活動をしていました。光州市が主導した90年代の観光事業は、光州を「義郷」と呼び、5・18戦跡地巡礼を前景化させるものでしたが、Jさんの著作では5・18関連史蹟が光州・全羅道の観光資源の一つとして相対化され、被差別性や悲劇性、抵抗の伝統など、光州・全羅道を表象する定型句がほとんど使われていませんでした。私はそのことに興味を抱き、すぐさま本のプロフィールに記載された著者の職場にインタビュー依頼の電話を入れました。

 光州のオフィスでひととおり話を聞き、最後に「5・18の時は何をされてましたか?」と訊ねると、Jさんは「中学生でした」と答えてから、問わず語りに次のようなエピソードを聞かせてくれたのです。

 

「当時、私は郊外に住んでいました。ある時、見知らぬ大学生が家にやって来て、“光州が大変なことになっている!軍人が市民を殴打している。このことを多くの人びとに伝えて下さい!”と訴えました。私は“軍人は国民を守るべき存在なのになぜ?”と、この学生の話を疑問に思いました。

 中学を卒業して、光州市内の高校に進みました。

 高校の友達に、姉を5・18で亡くし、全南大でその遺体写真を目にしてからというもの夢遊病者になって、夜ごと望月洞墓地までふらふら行ってしまう、という友人がいました。それを見て、私は初めて、“ああ、これが5・18なのだ・・・”と痛感したのです。

 87年に大学に進み6月抗争を経験したのをきっかけに、労働運動の道に進もうかと本気で進路に悩みました。そんな私に教授が、“それぞれに相応しい社会参与の役割がある”と助言してくれた。それで、観光学の道に進んだのです。」

 

 まさに「人に歴史あり」だ、と驚嘆させられました。Jさん自身は5・18を経験したわけでも目撃したわけでもなく、また縁者に犠牲者が出たわけでもなさそうです。Jさんが従事する観光研究と観光事業には、表向きは5・18の惨劇の影がまとわっていないように見えます。それでも高校時代の友人を通じて、そして朴鍾哲李韓烈という二人の学生の犠牲をきっかけとした87年の6月抗争を経験する中で、彼自身の生き方が問われたこと、それにより「社会参与(アンガージュマン)」としての観光学に携わってきたことは、まぎれもない事実なのです。

 朴暁善氏が「5・18は終わらない」と語る時、Jさんの友人が負ったような「心の傷」を念頭においていたことは指摘するまでもないでしょう。実際、朴氏の五月劇で「クミの五月」と並んで有名なのが、5・18で心病んだ女性を主人公とする「牡丹の花」という作品です。10日間の惨劇の中で、Jさんの友人のような経験をした人びとは、それこそ数えきれないほどいたはずです。

 長らく沖縄で臨床に携わった精神科の蟻塚亮二医師は、沖縄戦経験者の中に長じてから晩発性PTSDに苛まれる人たちが多いことを発見しました(『沖縄戦と心の傷』『戦争とこころ』参照)。そういえば、奇しくも今日は6月23日で、沖縄戦終結からちょうど73年にあたる日です。もう73年、いえ、「心の傷」と生き続ける人たちにとっては、まだ73年にしかならない。73年前の出来事はつい昨日のことのようにフラッシュバックし、73年前の痛みを今の痛みとして生きている。光州抗争から流れた今日までの月日は、そのわずか半分にすぎません。

 沖縄には、73年の月日が流れても癒えることのない「心の傷」と生きる人びとがいる。光州にも同じような「心の傷」と生きる人びとが、その半分にしか満たない歳月を、今日も人知れずひっそりと生き続けているのです。

 これは「アナザーストーリーズ」が伝えなかったことの一つ目です。

亡き劇作家が「クミの五月」に込めたもの(1)〜5・18は終わらない〜

死者の「肉声」を甦らせる

 昨年春、職場のメールボックスに津川泉という見知らぬ人物から書籍小包が届いていました。送られてきたのは『韓国現代戯曲集Ⅷ』(日韓演劇交流センター刊)という書物で、津川氏はそこに収められた「クミの五月」の訳者でした。

日韓演劇交流センターのHPで、この作品は次のように紹介されています。

 

1980年に起きた光州事件を描いた初の戯曲であり、1980年代の民俗劇(マダン劇)運動の記念碑的作品でもある。女子高生クミの視線で描かれる光州事件。軍の弾圧に抵抗し最後まで道庁に立てこもって殺された兄。事件後、政府は遺族たちを要注意人物として弾圧する。貧しいが平凡で平和な家庭だったクミの家族は、兄の死後、真実解明と民主化運動に参加するようになる。

ある日、警察に連行された母親を思い、光州事件を回想するクミ。

写実的な描写とマダン劇的なデフォルメや集団的演技が取り入れられた80年代民俗劇の様式で書かれている。

 

 戯曲「クミの五月」には、光州抗争当時、全南大2年生だった李正然(イ・ジョンヨン)という実在のモデルがおり、彼の死後に妹クミが発表した手記を原作としています。一方、作者の朴暁善(パク・ヒョソン)氏は、芸術班として市民軍の文化広報活動を担いますが、5月27日未明に空挺部隊が投入された直後に、死線をかいくぐって道庁からの脱出に成功します。それから2年間の潜伏生活の後に検挙され、懲役2年6カ月(執行猶予4年)の実刑を受けました。

 つまりパク氏はイ・ジョンヨンと最期まで闘いをともにしながら、道庁での最終決戦でその生死を分けたのでした。当然、生き残った者として心の重荷があったはずです。また生き残った者として物言わぬ死者たちに成り代わり、この事件をありのままの記憶として再現させるべく、自らの作品へと昇華させようと煩悶したことでしょう。「クミの五月」の誕生は抗争から8年の歳月をへた1988年のことでした。(*写真はイ・ジョンヨン)

 津川氏は訳者解説で、「この作者の胸底に溢れかえった―時代を撃つアクチュアリティーと、仮面劇やマダン劇で培われた民衆の抵抗精神―二つのマグマが民族的リアリズムとなって結実したのが本作である」と述べています。 

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 私は1996年5月に光州の劇団トバギで「クミの五月」の無料公演を観劇し、98年7月にはパク・ヒョソン氏にインタビューをしています。その時の彼の語りを『光州事件で読む現代韓国』(平凡社、2000年。*増補版:2010年)に記したのですが、津川氏は解説の中で「作者朴暁善の肉声も伝えている」として本書を引用してくれています。パク氏は私との面談からわずか2か月後、44歳の若さで亡くなりました。インタビューは肝臓がんで入院中の病院から外出許可を得て、市内のコーヒーショップで行われたのです。そう考えると、私は彼の「肉声」の最後の聞き手になったのかもしれません。

 今年の3月、「クミの五月」が日本の俳優たちによるドラマ・リーディングとして世田谷シアタートラムで上演されることになりました。

 病身のパク氏にゆうに1時間を超えて話を聞いたはずなのに、私が本の中で取り上げた彼の言葉はほんのわずかにすぎません。これはいわば、執筆当時の私が本で描こうとする筋書きに沿って語り手の話を編集した結果ともいえます。リーディング上演に寄せる一文を書こうとして、ふと「作者朴暁善の肉声も伝えている」という津川氏の言葉が頭をよぎりました。

 そこで今一度、それこそ文字通り「作者朴暁善の肉声」に聴いてみようと、私は20年前のカセットテープと文字起こしの原稿を引っ張り出したのでした。

 以下に、その文章をアップしておきます。

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「クミの五月」ドラマ・リーディングに寄せて

 私がパク・ヒョソン氏と初めて会ったのは96年5月のことです。94年に金泳三大統領が光州聖域化宣言をし、95年に国会で「5・18特別法」が可決されて公訴時効が廃止され、この「5・18特別法」により、97年4月に全斗煥盧泰愚実刑判決を受けました。また97年には5月18日が国家記念日に制定され、光州抗争の犠牲者たちが埋葬された望月洞墓地が国立5・18墓地に昇格されました。私が朴氏と面識を得たのは、ちょうど5・18が名誉復権される、その過渡期にあたる時期の、5月のほぼ一か月間を通して光州各所で催される記念行事でのさなかでした。道庁界隈をうろうろしながら、たまたま目に留まったのが劇団トバギの無料公演のポスターでした。

 私は演劇について、ひいては芸術全般についてまるで素養のない人間で、演劇鑑賞は実はこの劇団トバギによる「クミの五月」が初めてでした。しかしそれだけに、文字や言葉では表現されえない5・18という出来事が、感覚的に胸にずしりと迫ってきました。気が付くと、俳優たち、周囲の観客たちとともに、笑いや涙の渦の中に巻き込まれていました。

 公演終了後、かつて味わったことのないその不思議な感覚の余韻を引きずったまま、私はこの作品を作った人に会ってみたいと思い、衝動的に事務室のドアを叩いていました。これが朴氏との初めての対面でした。ごく簡単な挨拶のあと、「クミの五月」の原作となった遺族たちの証言録と数冊の本をお借りして、コピーさせていただきました。

 二度目に会ったのは98年7月です。『光州事件で読む現代韓国』という本を書き下ろすために、ソウルや光州でさまざまな世代と立場の人たちに会い、インタビューを重ねていました。当初、朴氏は面談に乗り気ではなかったそうですが、1時間程度なら、という条件で会ってくれました。肝臓の病気で入院中の病院から外出許可をもらってきた、と言っていましたが、割と元気そうに見えたので、病気がそれほど重篤とは想像もしないまま聞き取りを終えました。

 そこで語られた言葉の中で、いくつか心に残るフレーズを本の中で紹介しました。

 その一つが光州抗争という出来事のはらむ両義性を、「人間らしさ」の表出として指摘したくだりです。

 

「5・18は人間にとって歴史的事件だった。なぜか?5・18とは、人間がいちばん人間らしい姿をさらけ出した時間だったからです。その時、人々は生と死、笑いと泣き、嘘と真実、人間性と野蛮性・・・そういう相矛盾した局面をまるごと現わしていたのです。」

 

 今回、研究室の資料の山の中からインタビューのテープと文字起こし原稿を掘り起こし、もう一度、パク氏の言葉を振り返ってみました。すると、改めて唸らされたいくつもの箇所が見つかりました。これは今、朴槿恵大統領を罷免に追い込み文在寅政権を誕生させた韓国のろうそくデモの顛末を踏まえつつ、また現今の日本の政治状況に直面しながら読み返すことで、俄然鋭さと力強さをもって蘇る預言者のごとき言葉です。

f:id:gwangju:20180617212013p:plain パク氏は次のように語り出します。

 

「事件の中には人間の生と死がある。人間の意志、人間の姿ではない、野蛮人の姿がある。ある外国人の学者が『小隊長クラス以上は全員処罰されるべきだ』と言ったが、私はそれに同意する。そのプロセスを踏まなければ浄化された世界は作れないし、民族の精気をきちんと押し広めることもできない。普通の人たちは許せ、赦免しろという。しかし、それは軍部政治が犯した過ちだ。光州市民に対し『全斗煥を赦免しますか、しませんか?』とただの一度も尋ねることなく赦免した。金大中氏は5・18を知らない。彼は5・18を知る人ではない。」

 

 これは97年12月に大統領選で勝利した金大中が、すぐさま全斗煥盧泰愚を特赦したことに対する痛烈な批判です。

 続いて彼は、「89年にソウルでの『クミの五月』の公演後、劇団員たちが金大中と会って酒席をともにしたが、彼は5・18のことなど全然わかっちゃいなかったんだ」と吐露したあと、次のように語ります。

 

「5・18を経験しなかった人には5・18はわからない。ただ人の話を聞いて、後から涙を流すだけだ。同じ光州運動圏にいても5月17日に予備拘束された人たちにもわからない。その実態を知らない。ビデオでもわからない。当時の雰囲気、大衆たちの熱い熱気、喊声、緊張感、そして街の隅々の匂いも感じられない。5・18は一つの巨大な戦争であり、巨大なドラマだった。その中では人間のあらゆる姿が赤裸々に現わされていた。

 教授をしているある先輩との論争で、彼は言った。『自国の軍人は市民を銃で撃ち殺してもよいが、かといって、なぜ撃たれた市民が軍人に銃をもって対抗しえようか』と。これは知識人の虚偽だ。恐ろしいことだ。そうしたことが5・18の中には全て伏在する。

 今、5・18には問題が多い、遺族会、負傷者会・・・全部がそうとは言わないが、中には自分たちの利権や私利私欲、戦後の傷痍軍人たちのような、そういう現象がたくさん現われている。今でも5・18の一番の核心である“5月精神”とは何かを知らない者たちがやらかすことだ。

 『5・18は終わらない』というのは、そういった人々とも闘い続けなくてはならない、という問題だ。5月といえば、恥と贖罪だ。生き残った者たちの贖罪を感じるというのは多くが知識人たちだ。しかし5・18に対して恥ずかしさだ、贖罪だ、と言う人たちは、結局、今でも、5・18の基本的な精神を広く伝播させるとか、さもなければ学術的な研究や探究をするとか、そういったことをやろうとしない者たちがこんなことを言う。(略)

 今なすべきことは“5月精神”とは何かを、18年が過ぎた今のこの現実の中でも絶えず探し求め、先ほど述べたような状況に対抗して闘い続けるべきだ。『国民の政府』になってからも、なんだ、何も変わらいままじゃないか。気分が悪い。そういうことと闘うべきだ。」

 

 パク氏が指摘する「知識人の虚偽」、つまり欺瞞性は、金大中による特赦が象徴するように、普遍的な赦しの問題として韓国社会の中で語られてきました。その典型例としてパク氏は、青松監護所(*青松は慶尚北道にある都市)という医療刑務所に、5・18の時に空挺部隊だった元軍人たちが看守として大量に特別採用されていたという話をしてくれました。そこに収容された服役者の多くは看守による「非人間的な待遇」、つまり虐待で気がふれてしまう、というのです。

 パク氏は被害者と加害者の関係について次のように指摘します。

 

「加害者と被害者がいて、『加害者もある意味では被害者ではないか』などと言う知識人がいるが、それは観念的には正しいけれども、『小隊長クラス以上の処罰問題』とは異なった次元の問題だ。いまだにそういう連中が、人間の野蛮性の具象のごとき連中が、5・18への罪責感をもつどころか、青松監護所の看守として生き延びている。そういった現実との闘いが必要なのだ。」

 

 5・18をめぐる談論を蝕んでいるのは、パク氏と論争した先輩が主張する軍隊など国家権力への服従といった儒教的道徳性、あるいは「加害者もある意味で被害者」とする温情主義や、金大中による全斗煥盧泰愚に対する特赦が象徴するキリスト教的「赦し」、また当時、巷間で語られていた、いかに罪人といえども年長者に長期の獄中生活を強いるのは不徳である、とするいかにも儒教道徳的な温情など、パク氏の言葉を借りれば、どれもが「知識人の虚偽」、すなわち欺瞞にあります。さらにそこに各々の利権や私利私欲が絡まることで、闘いは分断されるのです。そして、このような過ちを犯すのは決まって5・18を経験していない、観念だけで5・18をとらえている人々だとも看破しています。こうしたあらゆる現実に対して闘いを挑み続けるべきだと、パク氏は主張するのです。

 国民は権力に忍従すべきだとか、「加害者もある意味で被害者」だからと加害責任からの免責を企てたり、権力者の罪悪を見逃して結果的に「赦し」を与える温情主義的な態度、利権や私利私欲によって運動が分断される、本当の戦争を知らない者に限って観念でこれを云々したがるなどの現象は、まるでこの国のどこかでも見たり聞いたりしている話ではないでしょうか。「5・18は終わらない」をたとえば「日本帝国主義は終わらない」という言葉に置き換えれば、パク氏の語りはそのまま今の、私たち日本の市民にも投げかけられていると思わざるをえません。

 インタビューからわずか2か月後にパク・ヒョソン氏が亡くなったことを、私は『光州事件で読む現代韓国』が刊行された2000年になって初めて知りました。5月、国立5・18墓地の遺影奉安殿でその遺影を見つけた時のショックは今も忘れられません。パク氏が病身をおして、どんな気持ちで私の拙いインタビューに応じてくれたのかはもはや知る由もありませんが、とりあえず韓国の人々は彼の言葉に呼応した粘り強いろうそくデモにより、まさに「浄化された世界」のとば口にまでこぎつけました。

 そのようなわけで、私はむしろ、パク氏の作品とそこに込められた思い、その肉声が、今、ここで、「クミの五月」のリーディング上演を介して再現されたことの意味を、自らに問いながら、日本人として主体的に受け止めたいと願うものです。(続く)

映画「光州5・18」のメッセージ

1980年5月の光州民主化抗争を扱った韓国映画「タクシー運転手」が人気ですね。 ちょうど10年前に光州5・18 - Wikipediaが日本で公開されました。どちらも主人公はタクシー運転手ですが、「タクシー運転手」の主人公は外側から光州抗争を経験し、「光州5・18」の主人公は光州の内側にいて、最終的に銃をとり、撃ち殺される。 韓国でこれらの映画を鑑賞した人によれば、「光州5・18」(原題「華麗なる休暇」)ではすすり泣く人たちが多かったのに対し、「タクシー運転手」では割合にあっさりとした反応だったそうです。これは10年間という時の隔たりが、人々の出来事との向き合い方に違いを生じさせているせいかもしれませんが、私は「光州5・18」の場合、韓国の人々に遍在する悲哀感情の描写が随所にちりばめられているからと考えています。「タクシー運転手」の映画批評を行なう前に、まずはこのことについて述べておきたいと思います。 「光州5・18」の日本公開にあたり、配給元の角川映画で仕事をさせていただきました。劇場用パンフに解説文を寄せたほか、公式サイト用にもう少し詳しい解説を書き下ろしました。現在、「光州5・18」公式サイトは残存しているものの、私の文章はすでに削除されているので、ここにそのまま再掲します。

 

映画「光州5・18」のメッセージ

タブーを超えた映画

 韓国は変わったのだ。旧い時代から新しい時代への変わり目に、これまでタブーに緊縛されていた「光州」がようやく解き放たれてゆく・・・試写室で初めて映画をみたとき、そんな新鮮な感慨に打たれた。同時に「71年、大邱生まれ」というキム・ジフン監督のプロフィールにおおいに興味をそそられた。光州事件への贖罪意識に動機づけられて「光州」を語ってきたのは主に60年代生まれであり、しかも大邱という町は韓国でもっとも保守的で、光州とは深刻な地域葛藤を抱え込んできた。私は90年代初頭の2年間を大邱で過ごしたが、光州・全羅道への嫌悪感や差別意識は人びとの言動の端々から垣間見えたし、逆に大邱慶尚道の人びともあちらへ行けば同様の扱いを受けたらしい。世代的にも地域的にも「光州」とはちょっと距離感のある生まれなればこそ、このような正面切って光州事件を描く映画が撮れたのではないかと思ったのだ。

 私がソウルや大邱で暮らした80~90年代の軍事政権時代、光州事件には二重の意味でタブーがあった。ひとつは事件そのものを“なかったこと”としてふるまうこと、もうひとつは事件をめぐるいかなる聖犯も許されないこと、である。前者は為政者が、後者は三八六世代(90年代に喧伝された「30歳代、80年代に大学生活を送った、60年代生まれ」の世代を意味する謂い)を中心とする運動家たちが張り巡らした、対極的なタブーであった。「光州」という地名すら声を潜めて語らなくてはならなかった80年代、あえて声高に「光州」を語った三八六世代は「悲惨さ」「崇高さ」といった聖なる語りに光州事件を封じ込め、皮肉にもそこにひとつの英雄史観を築いてきた。だが私が出会った市民軍の生き残りたちは、これをパターナリズムステロタイプだと切って捨てた。彼らはともに闘い死んでいった、その人間臭やクセを知り尽くした仲間たちが英雄扱いされることに少なからず違和感を抱いていたようだった。人間には美しい部分もあれば醜い部分もある、泣きもあれば笑いもある、崇高さもあれば残虐さもある・・・。そういう当たり前の人間の「真実」から目を背け、蓋をしてきたのが、従来の光州事件にまつわる神話だった。

無数の「花開けなかった命」を惜しんで

 「光州5・18」がこれまでの光州モノと一線を画すのは、インボンやヨンデといった上品とはいえない道化的なキャラクター、あるいは戒厳軍にからかわれた末に殴殺される痴れ者の青年などを登場させることで、光州事件で犠牲となったのは、なにも崇高な主義信条に突き動かされた人びとばかりではなかった事実を描き、従来のタブーを破ってその美談化を否定した点にあると思う。実際、いまや「英霊」に祀られている死者の中には、厠で用便中に流れ弾に当たって死んだ老婆や、デモを見物しようと仕事場を抜けて屋上に出たところを被弾した野次馬の青年労働者など、かなり間の抜けた死に方をした人たちもいる。しかしそれでも、死に大きい/小さいはない。誰にも日常のささやかな生活があり、ささやかな愛情をはぐくんできた家族がいたはずである。これから愛を紡ごうとしていた者たちもいたであろう。ミヌとシネの10日間が物語の主軸として描かれるのは、それが「あの時、あの場に、いたかもしれない人びと」であったからだと思う。そういう意味では、これは“お涙頂戴”のメロドラマとも異なるのだ。

 未婚の若者が早すぎる死を遂げると、韓国の人びとには「花のような命を失った」とか「花開けなかった命」といった言い回しで、ことさらにその死を哀惜する風がある。また無念をのんで逝った者は、死んでも「両目を閉じられない」という表現もある。韓国ではあまりに有名な光州事件への弔い歌「五月のうた」に、次のようなフレーズがある。

 

望月洞(犠牲者たちが葬られた場所)には見開かれた瞳たち/数千の血走った目たちが 絡みついている

 

 しかし映画では「暴徒」と罵られた末に銃弾を浴びせられたミヌだけではなく、シネが撃った若い兵士もその目を見開いたまま事切れる。私はそのシーンに「花開けなかった命」への愛惜は敵も味方も関係ない、戒厳軍の兵士とて徴用されただけの貧しき同族なのだ、という監督の優しいメッセージをみたような思いがした。学生運動に端を発し、近郊農村出身の青年労働者たちが市民軍の中核を担った光州事件では、無数の名もなき「花開けなかった命」が散っていったにちがいない。それを暗示するのが、最後の婚礼写真の幻影である。背後に流れる「ニムのための行進曲」は、82年2月、市民軍のスポークスマンをつとめたユン・サンウォンなる人物の死後結婚式が行なわれたとき、初めて世に出た光州事件への弔い歌であった。

 「光州5・18」の斬新さは、大所高所からの歴史、英雄史観からの歴史をイデオロギッシュに描くのではなく、無数の、そして無名の「花開けなかった命」を惜しむ心が全篇を貫いている点にある。これは「光州」への贖罪に生きようとするあまり、冒さざるべき神話としてこれを描かずにはいられない、生真面目な三八六世代にはどうしてもできない芸当であったと思う。

史実とフィクションのはざまで

 後日、角川映画からキム監督と同席する機会をいただいた。パンフレットに載っている黒いサングラス姿からは想像もつかない柔らかな物腰の人物だった。失礼ながら、とてもアン・ソンギなどの大物俳優を陣頭指揮した人物のようには見えなかった。

 彼はまず映画製作の理由を、「光州事件のことを何も知らなかった自分を恥じ、死者たちに申し訳ない思いをずっと抱いてきたから」と語ったが、これは三八六世代とも共通するメンタリティである。しかし三八六世代と決定的に異なっていたのは、彼自身が「まるでアジュモニ(おばちゃん)みたいでしょ?」と自分を評したような身構えのなさ、肩の力の適度な抜け具合であった。「まあ、いろんな批判はありますけどね」と前置きしながら、会話の中で何度となく繰り返された「ピョ~ナゲ、ピョ~ナゲ」(気を楽に、楽に)という言葉を聞いたとき、私にはこの映画の意味がすとんと腑に落ちたような気がしたのである。彼は光州で起こった実際の惨劇については、「その気になれば、今ならいくらだって資料は見られますから」とさらりと言ってのけた。彼が撮りたかったのはドキュメンタリーではなく、そこに存在したであろう無数の人間たちのドラマであり、国境や言葉を超えて共振できる人間という存在の「真実」を浮かび上がらせたかったのではないか・・・、そんなふうに感じ取れた。

 監督が言う「いろんな批判」を大雑把に括ってしまうと、映画の展開や描写が「史実と異なる点がある」ということになるだろうか。

 ひとつは事件にまつわる史実が「戒厳軍=悪玉、市民軍=善玉」といった二元的図式で歪曲されているという批判である。たとえば光州駅前では実弾射撃がなされたものの、道庁前で愛国歌をうたった直後の市民に向けて、まるでだまし討ちのように一斉射撃がなされたという事実はない。当時、現場にいあわせた東亜日報のキム・ヨンテク記者(当時)によれば、道庁舎から流れる愛国歌のメロディに合わせて、「このときの発砲は事前警告のように、すべて空中に向けて発射された」という。突然、物々しい銃声が鳴り響いたのは、それからしばらく後のことだった。大通りの真ん中に出て来て太極旗を振り、スローガンを叫んでいた5、6人の若者たちが、「そのまま倒れ込んだ。頭、胸と足から真っ赤な血が噴き出した」という。また市民軍の武器は道庁地下からではなく、バスやタクシーの運転手たちがデモに加わったことで機動力が確保され、郊外の武器庫から奪取された。市民が放送局や税務署に放火した事実も、映画では描かれなかった。加えて、市民軍を統率した予備役大佐(アン・ソンギ扮するパク・フンス)なる人物も実在しない。実際に市民軍の中核をなしたのは青年労働者たちと、夜学活動を通じて彼らに社会意識を植え付けてきた一部の学生運動家たちであり、市民軍統治下の6日間はコミューンの形態をなしていた。

 一方、光州内部では「表現が手ぬるい」という批判もあったそうだ。この指摘にも私は首肯できる。映画の殺戮シーンはあの程度でも日本の観客に衝撃を与えたらしいが、現実はもっと凄惨だった。資料集に掲載された正視に耐えない夥しい遺体の写真(だからチャンスの母は視覚障害者でよかったのだと、私は思っている)、備忘録に記された犠牲者たちの死の経緯と遺体状況、たとえば「左側の乳房が帯剣で突かれ、右の胸と顎、それに骨盤と大腿部をM16銃弾が貫通していた」、「頭に被弾して即死した妊婦の腹の上を8ヶ月の胎児がピクピクと波打っていたが、やがてそれも動かなくなった」とか、「M16の銃弾で蜂の巣のように撃たれたうえ軍靴で踏みつけられたので、眼球が飛び出るなど見るも無残な遺体だった」などの記述を思い起こすと、私は今でも戦慄が走るほどだ。だが今ここにあげた犠牲者たちは、すでに光州では、また運動家たちの間では、その悲惨な死にざまとともに名前を覚えられた、ある意味「有名人」であり「英雄」である。それに対し監督が描きたかったのは、このような記憶からさえも取りこぼされた無名の人びと、ささやかな日常生活から引きずり出され、極限状態に投げ込まれ、闘い、そして死んでいった小市民たちの姿だったのではないだろうか。

エンターテイメントとして「光州5・18」を見つめること

 つまり光州事件をめぐる大枠といくつかのシーン(父の遺影を抱く少年の姿、道庁屋上に掲げられた弔旗など)を除けば、この映画は限りなくフィクションに近い。だが、それが一体何だというのか。事件の推移に関する仔細な事実関係も、いかに殺されたかというリアリティに肉迫した殺戮シーンも、映画の主題を際立たせようとすれば単なるノイズにしかならないだろう。情報統制の厳しかった時代ならともかく、監督の言うように「その気になれば、いくらだって資料は見られる」のが現代の成熟した韓国社会の恩典なのだ。いずれにせよ、光州事件にまつわる「事実関係」や「リアリティ」を重視する立場からの批判は、この映画にとって的外れな気がしてならない。

 試写会では号泣する人たちが多かったと聞くが、それは「光州5・18」がエンターテイメントとして成功した証であろう。監督がこの映画に託したであろう思い、「世界は知らなかった、光州で散った愛の数を」というコピーに込められた深い悲哀の意味を慮れば、極端な話、光州事件に対する予備知識が皆無でも、彼が伝えたかったメッセージはみる者たちに十分に届いているのである。「ピョ~ナゲ、ピョ~ナゲ」という優しげな監督の口調を思い起こしながら、そんなことを考えた。ただし、そこには格別に「花開けなかった命」を惜しむ、ほぼ土俗的レベルの悲哀の念が潜んでいることを、これから「光州5・18」をみようという人たちにぜひとも知ってもらいたくて、私は今、この記事を書いている。この映画は単なるメロドラマで終わってほしくないからだ。

 加えて、韓国は現在も国民皆兵制の分断国家であり、たいていの成人男性は銃の扱いに手馴れている点を忘れずに、この映画をみてほしい。彼らは除隊後も、有事に備えて年に一度、一週間程度、思想教育および射撃などの実地訓練を受けることを義務づけられており、これを「予備役」と呼ぶのである(パク・フンスの「予備役大佐」という肩書きは、ここから来ている)。「主人公たちが市民軍として銃を手にしたとたん、急に英雄みたいになることに違和感があった」という趣旨の感想をネットで読んだが、恋愛は中学生レベルのミヌも、チンピラのヨンデも、お調子者のインボンも、誰もが銃を持てばあの程度の市街戦をやってのけるのが普通の韓国男性である、ということだ。つまりアメリカのような銃社会ではなくても、韓国社会には初めからアクション映画というもうひとつのエンターテイメントが成立しうる素地があったのである。

 ただ一介の韓国研究者としては、日本での「光州5・18」公開に先立ち、やはり光州事件とその背後にある韓国の社会や文化をある程度知っておいた方がより堪能できますよ、ということだけは言っておきたい。概略はすでにパンフレットに書いておいたので、ぜひご一読ください。

それが、問題なのだ!

はじめまして。

 1970~80年代の韓国民主化運動を研究してきましたが、気がつけば、私が暮らし、体験した80~90年代の韓国もまた急速に「歴史化」されていくのを実感するこの頃。それならば、そうした自身の来し方も「歴史化」の対象として、いわば一民族誌として書き留めておきたいと考え、このブログを始めることにしました。

 

私は韓国のシャーマニズム研究を振り出しに、93年からは70年代以降の民主化運動史を研究してきました。シャーマニズムから民主化運動へという突飛で華麗なる(?)転身には二つのきっかけがあります。

 

一つは盧泰愚政権末期の91年、いわゆる「五月事態」を間近に見たこと。同年4月26日、デモに参加していた姜慶大という学生が戦闘警察に殴打され、亡くなる事件がありました。その後、約一か月にわたり、苛烈化する公安統治に反対し、姜君の死に抗議する焼身自殺が各地で続いたのです。これを当局は「五月事態」と呼びました。当時、私は大邱にある大学で日本語教員をしていました。

 

もう一つは崔吉城先生の『韓国人의恨』という本を訳したこと(➡『恨の人類学』平河出版社、1994年)。その中に次のような一文がありました。「朴鍾哲拷問事件などは宗教的とは言えないが、冤魂の恐ろしさという点を実証してくれた一種の社会劇であったと言える。いくら警察や国家権力が恐ろしいとは言っても、一個人の冤魂を通じて民衆大多数の恨が投射されるとき、その怨恨は極大化し、ついには世俗の権力を凌駕するに至るのである。」(432頁)

 

これは大きな衝撃でした。シャーマニズム研究から、こうした政治的な事象を解き明かすこともできるのか、と。以来、これがそのまま私の研究テーマとなりました。秋に日本公開が決まっている韓国映画「1987」

1987arutatakai-movie.com

が扱っている出来事です。

 

軍事政権の終焉を待ち、93年から、朴鍾哲や、拷問に反対する運動のさなかで催涙弾に撃たれて亡くなった李韓烈といった「烈士」の研究に取り掛かりました。そして97年に、博士論文を書籍化した『烈士の誕生-韓国の民衆運動における「恨」の力学』を刊行。

 

ところで、この本についてはAmazonで一件のレビューがついています。レビュアーは☆5つをつけてくれているので、ありがたく思う。評価しつつ多少の苦言も呈されているが、それはそれでありがたいと思っている。ただ一か所だけ、著者として、どうしても譲れない不満があります。

 

以下は、レビューの冒頭です。

「出版から10年、ということは研究自体は十数年前に進められたものである。それ自体はなんら問題となるものではないが、いま読み返してみると、この本が取り上げている1970年代・1980年代はともかくとして、「現在」としての1990年代が、韓国においていかに今は昔と遠ざかってしまっているか、がひしひしと実感できる。「烈士」の最初のモデルとなった全泰壹、最終的には焼身自殺にまで至ったそのライフヒストリーに共感できる環境は、今の韓国にはもはやない。(彼が劣悪な環境で働いていた平和市場前を流れる現在の清渓川の透明な水を、当時の誰が想像できただろうか。)」

 

これは端的にいって、本書が取り上げた70~80年代はともかく、本書にとっての「現在」である90年代ですら、(レビューが投稿された2007年時点で)すでに「歴史化」の対象になっている、という指摘です。これには大いに首肯します。 しかし私が引っかかったのは、「出版から10年、ということは研究自体は十数年前に進められたものである」という冒頭の一文に続く、次のフレーズでした。

 

「それ自体はなんら問題となるものではないが、」

 

著者の経験からすれば、93年から進めてきたこの研究は、おおいに「問題となるもの」でした。その間に味わった恐怖や不快感、落胆の数々は、残念ながら本の字面には表われません。それは読み手には見えない研究の舞台裏です。

 

評者は「平和市場前を流れる現在の清渓川の透明な水」に象徴される開明的で洗練された韓国像しか見ていないし、90年代をすでに全泰壹の境遇には共感できない別世界の時代として捉えているようでもある。たしかに90年代をより現在に引き寄せて見れば、民主化文民政権、金大中盧武鉉、日本文化開放、韓流、ワールドカップ共催といった事柄に 象徴されるように、それはさも明るくて清新な民主政治の時代として映るでしょう。

 

でも実際はどうなのか?残念ながら、90年代に入ると、韓国の人々も「目を背けたい過去」として70~80年代の苛烈な民主化運動の記憶に蓋をするようになりました。ましてや、日本人の読み手に90年代韓国の陰の部分など見えるべくもありません。私が時おりFacebookなどで書き散らしてきた80~90年代のエピソードは、実はそうして目隠しされてきた出来事や人々にまつわる記憶なのです。

 

このブログは、「それ自体はなんら問題となるものではないが」といって、素通りされ、跨ぎ越されようする大文字の歴史と歴史の狭間に切れ目を入れ、そのあわいに生きられた経験の多様な真実を、その「余白」からの声を、思い起こせるかぎり書き残しておくために始めました。

 

そして、大きな声で言いたい。

それが、問題なのだ!

もだ(黙)して、聴け、「余白」の声に と。