映画「光州5・18」のメッセージ

1980年5月の光州民主化抗争を扱った韓国映画「タクシー運転手」が人気ですね。 ちょうど10年前に光州5・18 - Wikipediaが日本で公開されました。どちらも主人公はタクシー運転手ですが、「タクシー運転手」の主人公は外側から光州抗争を経験し、「光州5・18」の主人公は光州の内側にいて、最終的に銃をとり、撃ち殺される。 韓国でこれらの映画を鑑賞した人によれば、「光州5・18」(原題「華麗なる休暇」)ではすすり泣く人たちが多かったのに対し、「タクシー運転手」では割合にあっさりとした反応だったそうです。これは10年間という時の隔たりが、人々の出来事との向き合い方に違いを生じさせているせいかもしれませんが、私は「光州5・18」の場合、韓国の人々に遍在する悲哀感情の描写が随所にちりばめられているからと考えています。「タクシー運転手」の映画批評を行なう前に、まずはこのことについて述べておきたいと思います。 「光州5・18」の日本公開にあたり、配給元の角川映画で仕事をさせていただきました。劇場用パンフに解説文を寄せたほか、公式サイト用にもう少し詳しい解説を書き下ろしました。現在、「光州5・18」公式サイトは残存しているものの、私の文章はすでに削除されているので、ここにそのまま再掲します。

 

映画「光州5・18」のメッセージ

タブーを超えた映画

 韓国は変わったのだ。旧い時代から新しい時代への変わり目に、これまでタブーに緊縛されていた「光州」がようやく解き放たれてゆく・・・試写室で初めて映画をみたとき、そんな新鮮な感慨に打たれた。同時に「71年、大邱生まれ」というキム・ジフン監督のプロフィールにおおいに興味をそそられた。光州事件への贖罪意識に動機づけられて「光州」を語ってきたのは主に60年代生まれであり、しかも大邱という町は韓国でもっとも保守的で、光州とは深刻な地域葛藤を抱え込んできた。私は90年代初頭の2年間を大邱で過ごしたが、光州・全羅道への嫌悪感や差別意識は人びとの言動の端々から垣間見えたし、逆に大邱慶尚道の人びともあちらへ行けば同様の扱いを受けたらしい。世代的にも地域的にも「光州」とはちょっと距離感のある生まれなればこそ、このような正面切って光州事件を描く映画が撮れたのではないかと思ったのだ。

 私がソウルや大邱で暮らした80~90年代の軍事政権時代、光州事件には二重の意味でタブーがあった。ひとつは事件そのものを“なかったこと”としてふるまうこと、もうひとつは事件をめぐるいかなる聖犯も許されないこと、である。前者は為政者が、後者は三八六世代(90年代に喧伝された「30歳代、80年代に大学生活を送った、60年代生まれ」の世代を意味する謂い)を中心とする運動家たちが張り巡らした、対極的なタブーであった。「光州」という地名すら声を潜めて語らなくてはならなかった80年代、あえて声高に「光州」を語った三八六世代は「悲惨さ」「崇高さ」といった聖なる語りに光州事件を封じ込め、皮肉にもそこにひとつの英雄史観を築いてきた。だが私が出会った市民軍の生き残りたちは、これをパターナリズムステロタイプだと切って捨てた。彼らはともに闘い死んでいった、その人間臭やクセを知り尽くした仲間たちが英雄扱いされることに少なからず違和感を抱いていたようだった。人間には美しい部分もあれば醜い部分もある、泣きもあれば笑いもある、崇高さもあれば残虐さもある・・・。そういう当たり前の人間の「真実」から目を背け、蓋をしてきたのが、従来の光州事件にまつわる神話だった。

無数の「花開けなかった命」を惜しんで

 「光州5・18」がこれまでの光州モノと一線を画すのは、インボンやヨンデといった上品とはいえない道化的なキャラクター、あるいは戒厳軍にからかわれた末に殴殺される痴れ者の青年などを登場させることで、光州事件で犠牲となったのは、なにも崇高な主義信条に突き動かされた人びとばかりではなかった事実を描き、従来のタブーを破ってその美談化を否定した点にあると思う。実際、いまや「英霊」に祀られている死者の中には、厠で用便中に流れ弾に当たって死んだ老婆や、デモを見物しようと仕事場を抜けて屋上に出たところを被弾した野次馬の青年労働者など、かなり間の抜けた死に方をした人たちもいる。しかしそれでも、死に大きい/小さいはない。誰にも日常のささやかな生活があり、ささやかな愛情をはぐくんできた家族がいたはずである。これから愛を紡ごうとしていた者たちもいたであろう。ミヌとシネの10日間が物語の主軸として描かれるのは、それが「あの時、あの場に、いたかもしれない人びと」であったからだと思う。そういう意味では、これは“お涙頂戴”のメロドラマとも異なるのだ。

 未婚の若者が早すぎる死を遂げると、韓国の人びとには「花のような命を失った」とか「花開けなかった命」といった言い回しで、ことさらにその死を哀惜する風がある。また無念をのんで逝った者は、死んでも「両目を閉じられない」という表現もある。韓国ではあまりに有名な光州事件への弔い歌「五月のうた」に、次のようなフレーズがある。

 

望月洞(犠牲者たちが葬られた場所)には見開かれた瞳たち/数千の血走った目たちが 絡みついている

 

 しかし映画では「暴徒」と罵られた末に銃弾を浴びせられたミヌだけではなく、シネが撃った若い兵士もその目を見開いたまま事切れる。私はそのシーンに「花開けなかった命」への愛惜は敵も味方も関係ない、戒厳軍の兵士とて徴用されただけの貧しき同族なのだ、という監督の優しいメッセージをみたような思いがした。学生運動に端を発し、近郊農村出身の青年労働者たちが市民軍の中核を担った光州事件では、無数の名もなき「花開けなかった命」が散っていったにちがいない。それを暗示するのが、最後の婚礼写真の幻影である。背後に流れる「ニムのための行進曲」は、82年2月、市民軍のスポークスマンをつとめたユン・サンウォンなる人物の死後結婚式が行なわれたとき、初めて世に出た光州事件への弔い歌であった。

 「光州5・18」の斬新さは、大所高所からの歴史、英雄史観からの歴史をイデオロギッシュに描くのではなく、無数の、そして無名の「花開けなかった命」を惜しむ心が全篇を貫いている点にある。これは「光州」への贖罪に生きようとするあまり、冒さざるべき神話としてこれを描かずにはいられない、生真面目な三八六世代にはどうしてもできない芸当であったと思う。

史実とフィクションのはざまで

 後日、角川映画からキム監督と同席する機会をいただいた。パンフレットに載っている黒いサングラス姿からは想像もつかない柔らかな物腰の人物だった。失礼ながら、とてもアン・ソンギなどの大物俳優を陣頭指揮した人物のようには見えなかった。

 彼はまず映画製作の理由を、「光州事件のことを何も知らなかった自分を恥じ、死者たちに申し訳ない思いをずっと抱いてきたから」と語ったが、これは三八六世代とも共通するメンタリティである。しかし三八六世代と決定的に異なっていたのは、彼自身が「まるでアジュモニ(おばちゃん)みたいでしょ?」と自分を評したような身構えのなさ、肩の力の適度な抜け具合であった。「まあ、いろんな批判はありますけどね」と前置きしながら、会話の中で何度となく繰り返された「ピョ~ナゲ、ピョ~ナゲ」(気を楽に、楽に)という言葉を聞いたとき、私にはこの映画の意味がすとんと腑に落ちたような気がしたのである。彼は光州で起こった実際の惨劇については、「その気になれば、今ならいくらだって資料は見られますから」とさらりと言ってのけた。彼が撮りたかったのはドキュメンタリーではなく、そこに存在したであろう無数の人間たちのドラマであり、国境や言葉を超えて共振できる人間という存在の「真実」を浮かび上がらせたかったのではないか・・・、そんなふうに感じ取れた。

 監督が言う「いろんな批判」を大雑把に括ってしまうと、映画の展開や描写が「史実と異なる点がある」ということになるだろうか。

 ひとつは事件にまつわる史実が「戒厳軍=悪玉、市民軍=善玉」といった二元的図式で歪曲されているという批判である。たとえば光州駅前では実弾射撃がなされたものの、道庁前で愛国歌をうたった直後の市民に向けて、まるでだまし討ちのように一斉射撃がなされたという事実はない。当時、現場にいあわせた東亜日報のキム・ヨンテク記者(当時)によれば、道庁舎から流れる愛国歌のメロディに合わせて、「このときの発砲は事前警告のように、すべて空中に向けて発射された」という。突然、物々しい銃声が鳴り響いたのは、それからしばらく後のことだった。大通りの真ん中に出て来て太極旗を振り、スローガンを叫んでいた5、6人の若者たちが、「そのまま倒れ込んだ。頭、胸と足から真っ赤な血が噴き出した」という。また市民軍の武器は道庁地下からではなく、バスやタクシーの運転手たちがデモに加わったことで機動力が確保され、郊外の武器庫から奪取された。市民が放送局や税務署に放火した事実も、映画では描かれなかった。加えて、市民軍を統率した予備役大佐(アン・ソンギ扮するパク・フンス)なる人物も実在しない。実際に市民軍の中核をなしたのは青年労働者たちと、夜学活動を通じて彼らに社会意識を植え付けてきた一部の学生運動家たちであり、市民軍統治下の6日間はコミューンの形態をなしていた。

 一方、光州内部では「表現が手ぬるい」という批判もあったそうだ。この指摘にも私は首肯できる。映画の殺戮シーンはあの程度でも日本の観客に衝撃を与えたらしいが、現実はもっと凄惨だった。資料集に掲載された正視に耐えない夥しい遺体の写真(だからチャンスの母は視覚障害者でよかったのだと、私は思っている)、備忘録に記された犠牲者たちの死の経緯と遺体状況、たとえば「左側の乳房が帯剣で突かれ、右の胸と顎、それに骨盤と大腿部をM16銃弾が貫通していた」、「頭に被弾して即死した妊婦の腹の上を8ヶ月の胎児がピクピクと波打っていたが、やがてそれも動かなくなった」とか、「M16の銃弾で蜂の巣のように撃たれたうえ軍靴で踏みつけられたので、眼球が飛び出るなど見るも無残な遺体だった」などの記述を思い起こすと、私は今でも戦慄が走るほどだ。だが今ここにあげた犠牲者たちは、すでに光州では、また運動家たちの間では、その悲惨な死にざまとともに名前を覚えられた、ある意味「有名人」であり「英雄」である。それに対し監督が描きたかったのは、このような記憶からさえも取りこぼされた無名の人びと、ささやかな日常生活から引きずり出され、極限状態に投げ込まれ、闘い、そして死んでいった小市民たちの姿だったのではないだろうか。

エンターテイメントとして「光州5・18」を見つめること

 つまり光州事件をめぐる大枠といくつかのシーン(父の遺影を抱く少年の姿、道庁屋上に掲げられた弔旗など)を除けば、この映画は限りなくフィクションに近い。だが、それが一体何だというのか。事件の推移に関する仔細な事実関係も、いかに殺されたかというリアリティに肉迫した殺戮シーンも、映画の主題を際立たせようとすれば単なるノイズにしかならないだろう。情報統制の厳しかった時代ならともかく、監督の言うように「その気になれば、いくらだって資料は見られる」のが現代の成熟した韓国社会の恩典なのだ。いずれにせよ、光州事件にまつわる「事実関係」や「リアリティ」を重視する立場からの批判は、この映画にとって的外れな気がしてならない。

 試写会では号泣する人たちが多かったと聞くが、それは「光州5・18」がエンターテイメントとして成功した証であろう。監督がこの映画に託したであろう思い、「世界は知らなかった、光州で散った愛の数を」というコピーに込められた深い悲哀の意味を慮れば、極端な話、光州事件に対する予備知識が皆無でも、彼が伝えたかったメッセージはみる者たちに十分に届いているのである。「ピョ~ナゲ、ピョ~ナゲ」という優しげな監督の口調を思い起こしながら、そんなことを考えた。ただし、そこには格別に「花開けなかった命」を惜しむ、ほぼ土俗的レベルの悲哀の念が潜んでいることを、これから「光州5・18」をみようという人たちにぜひとも知ってもらいたくて、私は今、この記事を書いている。この映画は単なるメロドラマで終わってほしくないからだ。

 加えて、韓国は現在も国民皆兵制の分断国家であり、たいていの成人男性は銃の扱いに手馴れている点を忘れずに、この映画をみてほしい。彼らは除隊後も、有事に備えて年に一度、一週間程度、思想教育および射撃などの実地訓練を受けることを義務づけられており、これを「予備役」と呼ぶのである(パク・フンスの「予備役大佐」という肩書きは、ここから来ている)。「主人公たちが市民軍として銃を手にしたとたん、急に英雄みたいになることに違和感があった」という趣旨の感想をネットで読んだが、恋愛は中学生レベルのミヌも、チンピラのヨンデも、お調子者のインボンも、誰もが銃を持てばあの程度の市街戦をやってのけるのが普通の韓国男性である、ということだ。つまりアメリカのような銃社会ではなくても、韓国社会には初めからアクション映画というもうひとつのエンターテイメントが成立しうる素地があったのである。

 ただ一介の韓国研究者としては、日本での「光州5・18」公開に先立ち、やはり光州事件とその背後にある韓国の社会や文化をある程度知っておいた方がより堪能できますよ、ということだけは言っておきたい。概略はすでにパンフレットに書いておいたので、ぜひご一読ください。