亡き劇作家が「クミの五月」に込めたもの(1)〜5・18は終わらない〜

死者の「肉声」を甦らせる

 昨年春、職場のメールボックスに津川泉という見知らぬ人物から書籍小包が届いていました。送られてきたのは『韓国現代戯曲集Ⅷ』(日韓演劇交流センター刊)という書物で、津川氏はそこに収められた「クミの五月」の訳者でした。

日韓演劇交流センターのHPで、この作品は次のように紹介されています。

 

1980年に起きた光州事件を描いた初の戯曲であり、1980年代の民俗劇(マダン劇)運動の記念碑的作品でもある。女子高生クミの視線で描かれる光州事件。軍の弾圧に抵抗し最後まで道庁に立てこもって殺された兄。事件後、政府は遺族たちを要注意人物として弾圧する。貧しいが平凡で平和な家庭だったクミの家族は、兄の死後、真実解明と民主化運動に参加するようになる。

ある日、警察に連行された母親を思い、光州事件を回想するクミ。

写実的な描写とマダン劇的なデフォルメや集団的演技が取り入れられた80年代民俗劇の様式で書かれている。

 

 戯曲「クミの五月」には、光州抗争当時、全南大2年生だった李正然(イ・ジョンヨン)という実在のモデルがおり、彼の死後に妹クミが発表した手記を原作としています。一方、作者の朴暁善(パク・ヒョソン)氏は、芸術班として市民軍の文化広報活動を担いますが、5月27日未明に空挺部隊が投入された直後に、死線をかいくぐって道庁からの脱出に成功します。それから2年間の潜伏生活の後に検挙され、懲役2年6カ月(執行猶予4年)の実刑を受けました。

 つまりパク氏はイ・ジョンヨンと最期まで闘いをともにしながら、道庁での最終決戦でその生死を分けたのでした。当然、生き残った者として心の重荷があったはずです。また生き残った者として物言わぬ死者たちに成り代わり、この事件をありのままの記憶として再現させるべく、自らの作品へと昇華させようと煩悶したことでしょう。「クミの五月」の誕生は抗争から8年の歳月をへた1988年のことでした。(*写真はイ・ジョンヨン)

 津川氏は訳者解説で、「この作者の胸底に溢れかえった―時代を撃つアクチュアリティーと、仮面劇やマダン劇で培われた民衆の抵抗精神―二つのマグマが民族的リアリズムとなって結実したのが本作である」と述べています。 

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 私は1996年5月に光州の劇団トバギで「クミの五月」の無料公演を観劇し、98年7月にはパク・ヒョソン氏にインタビューをしています。その時の彼の語りを『光州事件で読む現代韓国』(平凡社、2000年。*増補版:2010年)に記したのですが、津川氏は解説の中で「作者朴暁善の肉声も伝えている」として本書を引用してくれています。パク氏は私との面談からわずか2か月後、44歳の若さで亡くなりました。インタビューは肝臓がんで入院中の病院から外出許可を得て、市内のコーヒーショップで行われたのです。そう考えると、私は彼の「肉声」の最後の聞き手になったのかもしれません。

 今年の3月、「クミの五月」が日本の俳優たちによるドラマ・リーディングとして世田谷シアタートラムで上演されることになりました。

 病身のパク氏にゆうに1時間を超えて話を聞いたはずなのに、私が本の中で取り上げた彼の言葉はほんのわずかにすぎません。これはいわば、執筆当時の私が本で描こうとする筋書きに沿って語り手の話を編集した結果ともいえます。リーディング上演に寄せる一文を書こうとして、ふと「作者朴暁善の肉声も伝えている」という津川氏の言葉が頭をよぎりました。

 そこで今一度、それこそ文字通り「作者朴暁善の肉声」に聴いてみようと、私は20年前のカセットテープと文字起こしの原稿を引っ張り出したのでした。

 以下に、その文章をアップしておきます。

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「クミの五月」ドラマ・リーディングに寄せて

 私がパク・ヒョソン氏と初めて会ったのは96年5月のことです。94年に金泳三大統領が光州聖域化宣言をし、95年に国会で「5・18特別法」が可決されて公訴時効が廃止され、この「5・18特別法」により、97年4月に全斗煥盧泰愚実刑判決を受けました。また97年には5月18日が国家記念日に制定され、光州抗争の犠牲者たちが埋葬された望月洞墓地が国立5・18墓地に昇格されました。私が朴氏と面識を得たのは、ちょうど5・18が名誉復権される、その過渡期にあたる時期の、5月のほぼ一か月間を通して光州各所で催される記念行事でのさなかでした。道庁界隈をうろうろしながら、たまたま目に留まったのが劇団トバギの無料公演のポスターでした。

 私は演劇について、ひいては芸術全般についてまるで素養のない人間で、演劇鑑賞は実はこの劇団トバギによる「クミの五月」が初めてでした。しかしそれだけに、文字や言葉では表現されえない5・18という出来事が、感覚的に胸にずしりと迫ってきました。気が付くと、俳優たち、周囲の観客たちとともに、笑いや涙の渦の中に巻き込まれていました。

 公演終了後、かつて味わったことのないその不思議な感覚の余韻を引きずったまま、私はこの作品を作った人に会ってみたいと思い、衝動的に事務室のドアを叩いていました。これが朴氏との初めての対面でした。ごく簡単な挨拶のあと、「クミの五月」の原作となった遺族たちの証言録と数冊の本をお借りして、コピーさせていただきました。

 二度目に会ったのは98年7月です。『光州事件で読む現代韓国』という本を書き下ろすために、ソウルや光州でさまざまな世代と立場の人たちに会い、インタビューを重ねていました。当初、朴氏は面談に乗り気ではなかったそうですが、1時間程度なら、という条件で会ってくれました。肝臓の病気で入院中の病院から外出許可をもらってきた、と言っていましたが、割と元気そうに見えたので、病気がそれほど重篤とは想像もしないまま聞き取りを終えました。

 そこで語られた言葉の中で、いくつか心に残るフレーズを本の中で紹介しました。

 その一つが光州抗争という出来事のはらむ両義性を、「人間らしさ」の表出として指摘したくだりです。

 

「5・18は人間にとって歴史的事件だった。なぜか?5・18とは、人間がいちばん人間らしい姿をさらけ出した時間だったからです。その時、人々は生と死、笑いと泣き、嘘と真実、人間性と野蛮性・・・そういう相矛盾した局面をまるごと現わしていたのです。」

 

 今回、研究室の資料の山の中からインタビューのテープと文字起こし原稿を掘り起こし、もう一度、パク氏の言葉を振り返ってみました。すると、改めて唸らされたいくつもの箇所が見つかりました。これは今、朴槿恵大統領を罷免に追い込み文在寅政権を誕生させた韓国のろうそくデモの顛末を踏まえつつ、また現今の日本の政治状況に直面しながら読み返すことで、俄然鋭さと力強さをもって蘇る預言者のごとき言葉です。

f:id:gwangju:20180617212013p:plain パク氏は次のように語り出します。

 

「事件の中には人間の生と死がある。人間の意志、人間の姿ではない、野蛮人の姿がある。ある外国人の学者が『小隊長クラス以上は全員処罰されるべきだ』と言ったが、私はそれに同意する。そのプロセスを踏まなければ浄化された世界は作れないし、民族の精気をきちんと押し広めることもできない。普通の人たちは許せ、赦免しろという。しかし、それは軍部政治が犯した過ちだ。光州市民に対し『全斗煥を赦免しますか、しませんか?』とただの一度も尋ねることなく赦免した。金大中氏は5・18を知らない。彼は5・18を知る人ではない。」

 

 これは97年12月に大統領選で勝利した金大中が、すぐさま全斗煥盧泰愚を特赦したことに対する痛烈な批判です。

 続いて彼は、「89年にソウルでの『クミの五月』の公演後、劇団員たちが金大中と会って酒席をともにしたが、彼は5・18のことなど全然わかっちゃいなかったんだ」と吐露したあと、次のように語ります。

 

「5・18を経験しなかった人には5・18はわからない。ただ人の話を聞いて、後から涙を流すだけだ。同じ光州運動圏にいても5月17日に予備拘束された人たちにもわからない。その実態を知らない。ビデオでもわからない。当時の雰囲気、大衆たちの熱い熱気、喊声、緊張感、そして街の隅々の匂いも感じられない。5・18は一つの巨大な戦争であり、巨大なドラマだった。その中では人間のあらゆる姿が赤裸々に現わされていた。

 教授をしているある先輩との論争で、彼は言った。『自国の軍人は市民を銃で撃ち殺してもよいが、かといって、なぜ撃たれた市民が軍人に銃をもって対抗しえようか』と。これは知識人の虚偽だ。恐ろしいことだ。そうしたことが5・18の中には全て伏在する。

 今、5・18には問題が多い、遺族会、負傷者会・・・全部がそうとは言わないが、中には自分たちの利権や私利私欲、戦後の傷痍軍人たちのような、そういう現象がたくさん現われている。今でも5・18の一番の核心である“5月精神”とは何かを知らない者たちがやらかすことだ。

 『5・18は終わらない』というのは、そういった人々とも闘い続けなくてはならない、という問題だ。5月といえば、恥と贖罪だ。生き残った者たちの贖罪を感じるというのは多くが知識人たちだ。しかし5・18に対して恥ずかしさだ、贖罪だ、と言う人たちは、結局、今でも、5・18の基本的な精神を広く伝播させるとか、さもなければ学術的な研究や探究をするとか、そういったことをやろうとしない者たちがこんなことを言う。(略)

 今なすべきことは“5月精神”とは何かを、18年が過ぎた今のこの現実の中でも絶えず探し求め、先ほど述べたような状況に対抗して闘い続けるべきだ。『国民の政府』になってからも、なんだ、何も変わらいままじゃないか。気分が悪い。そういうことと闘うべきだ。」

 

 パク氏が指摘する「知識人の虚偽」、つまり欺瞞性は、金大中による特赦が象徴するように、普遍的な赦しの問題として韓国社会の中で語られてきました。その典型例としてパク氏は、青松監護所(*青松は慶尚北道にある都市)という医療刑務所に、5・18の時に空挺部隊だった元軍人たちが看守として大量に特別採用されていたという話をしてくれました。そこに収容された服役者の多くは看守による「非人間的な待遇」、つまり虐待で気がふれてしまう、というのです。

 パク氏は被害者と加害者の関係について次のように指摘します。

 

「加害者と被害者がいて、『加害者もある意味では被害者ではないか』などと言う知識人がいるが、それは観念的には正しいけれども、『小隊長クラス以上の処罰問題』とは異なった次元の問題だ。いまだにそういう連中が、人間の野蛮性の具象のごとき連中が、5・18への罪責感をもつどころか、青松監護所の看守として生き延びている。そういった現実との闘いが必要なのだ。」

 

 5・18をめぐる談論を蝕んでいるのは、パク氏と論争した先輩が主張する軍隊など国家権力への服従といった儒教的道徳性、あるいは「加害者もある意味で被害者」とする温情主義や、金大中による全斗煥盧泰愚に対する特赦が象徴するキリスト教的「赦し」、また当時、巷間で語られていた、いかに罪人といえども年長者に長期の獄中生活を強いるのは不徳である、とするいかにも儒教道徳的な温情など、パク氏の言葉を借りれば、どれもが「知識人の虚偽」、すなわち欺瞞にあります。さらにそこに各々の利権や私利私欲が絡まることで、闘いは分断されるのです。そして、このような過ちを犯すのは決まって5・18を経験していない、観念だけで5・18をとらえている人々だとも看破しています。こうしたあらゆる現実に対して闘いを挑み続けるべきだと、パク氏は主張するのです。

 国民は権力に忍従すべきだとか、「加害者もある意味で被害者」だからと加害責任からの免責を企てたり、権力者の罪悪を見逃して結果的に「赦し」を与える温情主義的な態度、利権や私利私欲によって運動が分断される、本当の戦争を知らない者に限って観念でこれを云々したがるなどの現象は、まるでこの国のどこかでも見たり聞いたりしている話ではないでしょうか。「5・18は終わらない」をたとえば「日本帝国主義は終わらない」という言葉に置き換えれば、パク氏の語りはそのまま今の、私たち日本の市民にも投げかけられていると思わざるをえません。

 インタビューからわずか2か月後にパク・ヒョソン氏が亡くなったことを、私は『光州事件で読む現代韓国』が刊行された2000年になって初めて知りました。5月、国立5・18墓地の遺影奉安殿でその遺影を見つけた時のショックは今も忘れられません。パク氏が病身をおして、どんな気持ちで私の拙いインタビューに応じてくれたのかはもはや知る由もありませんが、とりあえず韓国の人々は彼の言葉に呼応した粘り強いろうそくデモにより、まさに「浄化された世界」のとば口にまでこぎつけました。

 そのようなわけで、私はむしろ、パク氏の作品とそこに込められた思い、その肉声が、今、ここで、「クミの五月」のリーディング上演を介して再現されたことの意味を、自らに問いながら、日本人として主体的に受け止めたいと願うものです。(続く)