韓国の歌シリーズ番外編:「僕が知っているひとつの事」(1992年)

 ご無沙汰しています。2017年度以降、割と大掛かりな共同研究の代表者となり、若手とベテランのあいだで右往左往する中堅の中間管理職としてあたふた過ごすうちに、気がつくと、最後のブログ更新から一年もたってしまっていました。そのうちに世界はコロナ禍で覆いつくされ、オンライン会議だ授業だと馴れないことにあたふたし、今年度予定していたいくつかの行事が中止になったり延期になったりで、またあたふた過ごしているうちに、あれよあれよと緊急事態宣言とか、、、なんだかむやみに心ささくれる日々を送ってしまっておりました。

 そんなさなかに、京都大学人文科学研究所の藤原辰史准教授の緊急寄稿「パンデミックを生きる指針」を読んで、心打たれました。抑制しつつも熱情にほとばしる筆致に、人文系の研究者としてやむにやまれず、心の深奥から湧き上がる言葉を刻みつけずにはおられなかったのだなあ、と感嘆しました。特に最後のこのくだりに、私は彼の心の叫びを聞く思いがしました。そして、その思いに私も声を重ねました。長文ですが引用するので、これだけでもぜひ読んでください。

 

「日本は、各国と同様に、歴史の女神クリオによって試されている。果たして日本はパンデミック後も生き残るに値する国家なのかどうかを。クリオが審判を下す材料は何だろうか。危機の時期に生まれる学術や芸術も指標の一つであり、学術や芸術の飛躍はおそらく各国で見られるだろうが、それは究極的には重要な指標ではない。死者数の少なさも、最終的な判断の材料からは外れる。試されるのは、すでに述べてきたように、いかに、人間価値の値切りと切り捨てに抗うかである。いかに、感情に曇らされて、フラストレーションを「魔女」狩りや「弱いもの」への攻撃で晴らすような野蛮に打ち勝つか、である。

 

武漢で封鎖の日々を日記に綴って公開した作家、方方は、「一つの国が文明国家であるかどうか[の]基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」(日本語訳は日中福祉プランニングの王青)と喝破した。

 

この危機の時代だからこそ、危機の皺寄せがくる人びとのためにどれほどの対策を練ることができるか、という方方の試金石にはさらなる補足があってもよいだろう。危機の時代は、これまで隠されていた人間の卑しさと日常の危機を顕在化させる。危機以前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた人びとのために、どれほど力を尽くし、パンデミック後も尽くし続ける覚悟があるのか。皆が石を投げる人間に考えもせずに一緒になって石を投げる卑しさを、どこまで抑えることができるのか。これがクリオの判断材料にほかならない。「しっぽ」の切り捨てと責任の押し付けでウイルスを「制圧」したと奢る国家は、パンデミック後の世界では、もはや恥ずかしさのあまり崩れ落ちていくだろう。」

 

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 今の私にはこれだけの文章をものすだけの体力も気力もないのが実情なのですが、それでも自分も何かをせずにはいられない気持ちになりました。ちなみに藤原さんは、あの感動的な声明文「あしたのための声明書」を起草した「自由と平和のための京大有志の会」の「中の人」でもあります。これも以下に貼っておきます。

 

わたしたちは、忘れない。
人びとの声に耳をふさぎ、まともに答弁もせず法案を通した首相の厚顔を。
戦争に行きたくないと叫ぶ若者を「利己的」と罵った議員の無恥を。
強行採決も連休を過ぎれば忘れると言い放った官房長官の傲慢を。

わたしたちは、忘れない。
マスコミを懲らしめる、と恫喝した議員の思い上がりを。
権力に媚び、おもねるだけの報道人と言論人の醜さを。
居眠りに耽る議員たちの弛緩を。

わたしたちは、忘れない。
声を上げた若者たちの美しさを。
街頭に立ったお年寄りたちの威厳を。
内部からの告発に踏み切った人びとの勇気を。

わたしたちは、忘れない。
戦争の体験者が学生のデモに加わっていた姿を。
路上で、職場で、田んぼで、プラカードを掲げた人びとの決意を。
聞き届けられない声を、それでも上げつづけてきた人びとの苦しく切ない歴史を。

きょうは、はじまりの日。
憲法を貶めた法律を葬り去る作業のはじまり。
賛成票を投じたツケを議員たちが苦々しく噛みしめる日々のはじまり。
人の生命を軽んじ、人の尊厳を踏みにじる独裁政治の終わりのはじまり。
自由と平和への願いをさらに深く、さらに広く共有するための、あらゆる試みのはじまり。

わたしたちは、忘れない、あきらめない、屈しない。

 

 

 藤原さんのこれらの「ことば」に心突き動かされる思いでいたときでした。たまたまFacebookの「思い出」ボタンを押したら、2019年の4月6日に自分がこんな文章を書いているのが目にとまりました。これは勿論、藤原さんの「ことばの力」になど及ぶべくもないのですが、韓国研究者として朝鮮人、また在日朝鮮人に相対するときの気構えのようなものとして、走り書きのようにポストした文章でした。以下に、ちょっと加筆したものを貼り付けますね。

 

 

 最近しきりと思い起こす場面がある。

 今から四半世紀も昔、韓国の大学で日本語教師をしていた時、一人の大学院生と朝まで痛飲したことがあった。

 私は学生寮の一角にある独身寮に住んでいて、彼は学生寮の舎監だった。独文科で哲学を専攻していた。

 寮の敷地に隣接した巴山洞という集落の場末の飲み屋で食事をとりながら、二人で焼酎を何本も空けた。ふらふらになるまで飲み続けた私たちは、店を出た後も、寮の中庭のベンチに腰掛け、なおも焼酎をあおりながら話し続けた。それは酔っ払いどうしの呂律の回らない会話だったと思う。

 どんな話をしたのかは全く記憶にない。ただ、はっきりと覚えているのは、彼が発した二つの言葉だ。

「君だって、一人でひっそり泣いてることが、きっとあるんだろう? 本当のことを言えよ。」

 この問いかけに、虚を衝かれたことだけは、とてもよく憶えている。そうよ、泣きたいことなんて山ほどある。泣いたことだって数えきれないほどある。だけど、それを韓国人のあなたに言っちゃって本当にいいの? それにね、本当にツライことは言葉になんかならないんだよ。言い出したらとめどなくなって制御がきかなくなって、だんだん韓国語であれこれ言うことがめんどくさくなって、そのうち伝えることに投げやりになるんだよ? それ、あなたにわかる? 頭のなかでそんな思いがぐるぐると回っていたが、これをわざわざ韓国語に置き換えて語るほどの気力はなかったのだ。結局この問いかけにどう応えたのか、それはまるで記憶がすっ飛んでいる。

 次に思い出せるのは、べろべろに酔いつぶれた彼がつぶやいた一言だった。

「どうしてなんだ。おれ、日本人がずっと大嫌いだったはずなのに…」

 私たちは酔っ払ってベンチにだらりと腰掛けたまま、真夏のけだるい朝を迎えた。

 午前の列車でソウルに行くことになっていた私は、二日酔いのぐるぐる回る頭を抱えたまま、大邱駅からムグンファ号に飛び乗った。ソウルに着く頃にはなんとか酔いもさめ、予定通り学会会場に滑り込んだ。

 まあ、たったそれだけの出来事なんだけど、いま痛みとともに感じているのは、自分には彼が絞り出した「日本人が大嫌いだったはずなのに」というつぶやきのような、湾曲した感情の複雑さをなんとなく斟酌はできても、決して彼と同じように感ずることはできないのだ、ということだ。

 それは韓国人にもアメリカ人にも、どこの国の人に対しても、何の屈託もなく生きてこられた能天気な日本のマジョリティだった…という「罪」だ。同じ人間どうし、分かりあい、思いやりを分かちあえる部分はきっとあるだろう。彼が一人で「他郷暮らし」を送る「老処女」(=オールドミス)の寂しさを思いやってくれたように! それでもおそらく、どう引っくり返ったとしても、私には、あの言葉の真意が心から「わかる」とは言えないし、言ってはならないのだ、と思っている。改めて。

 これはどういう意味かというと、他者が他者であるがゆえの尊厳を認めて、だからそう簡単に分かり合えたとは言えない「孤独」を抱き続けて、それでもなお知りたい、ともにありたいと願い続ける覚悟みたいなもの…だろうか? 藤原さんがあの感動的な提言の最後のくだりを記すときにも、きっと同様の思いがあったのではないかと思う。それが歴史家というものだから。「危機以前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた人びと」の背後にある、その人びとが背負ってきた歴史の地層とそのあわいで生きられた経験を凝視し、認めることにほかならないからだ。

 現在の私は光州や運動圏の友人知人からとてもよくしてもらい、理解もされ、ああやっと…という感慨がある一方で、そこに甘えて胡座をかいていてはいけないとも思っている。特に馬齢を重ねて大学教員の地位に就いてしまうと、行く先々で配慮され、かつてのように自分の足で汗水流して這いずり廻る機会がほとんどなくなってしまう。感性が鈍麻してわかった気になり、裸の王様になってしまう。そんな危険を自分自身のなかに感じている。だからこそ、たとえば「日本人が大嫌いだったはずなのに」という一韓国人の戸惑いとその根底にある歴史的経験というものは、どう逆立ちしても自分のような日本のマジョリティには経験がなく、よって「わからない」という現実を忘れないようにしたいと思っている。

 そして、このことが私にとっての「僕が知っているひとつの事」だということを、改めてーーー。

  さて、これまで3回書き継いできた「言葉のなかに埋められた言葉」の歌シリーズは、まだまだもっと書きたいことはあるのですが、今はちょっとだけお休みします。これは、また状況が落ち着いたら再開します。でも、今回も一曲、私の好きな韓国歌謡を紹介させてくださいね。イ・ドクチン(이덕진)の「僕が知っているひとつの事」(내가 아는 한가지)、1992年の大ヒット曲です。巴山洞を見下ろす学生寮の中庭で、夜ごと、誰かれとなく学生たちがよく愛唱していた歌です。今回は記事の内容と歌の歌詞とはあんまり関係ないですが、一応、歌詞と日本語訳を貼っておきます。

www.youtube.com

 

작사 : 박주연 작곡 : 최성원

살아가는 동안 한번도 안 올지 몰라
사랑이라는 감정의 물결
그런때가 왔다는건 삶이 가끔 주는 선물
지금까지 잘견뎌 왔다는
널 만났다는 건 외롭던 날들의 보상인 걸
그래서 나는 맞이하게 된거야
그대라는 커다란 운명
이  세상에 무엇 하나도 나를 꺽을 수는 없겠지만
너의 뜻대로 살아가는 것만이 내가 아는 한 가지
.
生きているうちに一度も訪れないかもしれない 愛という感情の波
そんな時が訪れたのは人生が時折くれる贈り物 これまでよく堪えてきたねと
君に出会えたのは寂しかった日々の報いだということを
だから僕は迎えたのさ、君という大きな運命を
この世に何ひとつ、僕を挫くことのできるものなどないけれど
君の思いのままに生きていくことだけが、僕が知っているひとつの事
 
네가 원하는 건 나 또한 원하는 거야
이미 나는 따로 있질않아
이별이라는 것 또한 사랑했던 사람만이
가질 수 있는 추억일지 몰라
널 만났다는건 외롭던 날들의 보상인 걸
그래서 나는 맞이하게 된거야
그대라는 커다란 운명
이 세상에 무엇하나도 나를 꺽을 수는 없겠지만
너의 뜻대로 살아가는 것만이 내가 아는 한가지

君が願うことは僕もまた願うことさ、すでに僕は別にいるんじゃない
別れというものもまた愛した者だけに与えられた追憶かもしれない
君に出会えたのは寂しかった日々の報いだということを
だから僕は迎えたのさ、君という大きな運命を
この世に何ひとつ、僕を僕を挫くことのできるものなどないけれど
君の思いのままに生きていくことだけが、僕が知っているひとつの事

 

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(1991年夏、大邱にて学生と。註:本文に出てくる大学院生とは別人です!)