言葉のなかに埋められた言葉を④-丁秀羅:二人の「ニム」のはざまで歌う

「ニムのための行進曲」(1982年)―光州抗争40周年に

 また新緑の候、風薫る5月が巡ってきました。

 しかし今年の5月は、これまでの5月と変わらないブルー・スカイ・ブルーの空が不気味に沈黙しています。通りを出歩く人影はまばらで、わずかに行き合う人々もみな一様に用心深くマスクで顔を覆っている。先行きの見えない鬱屈した心に加え、サーファーは来るな、パチンコ屋は営業するな、県外ナンバーの車は来るな、と、テレビやラジオが言えば、そうした“自粛要請”に違反した人たちを詮索して、探し出しては吊るし上げスケープゴートにする、いわゆる「コロナ自警団」がどこに潜んでいるかわからないという不安まで。

そうした静寂の奥にひそむ怯懦と邪さと猜疑心の同調圧力で窒息しかかった、その空気に、ふと1984年夏に立ち寄った光州のたたずまいを思い出しました。当時、光州はすでに約80万の人口をかかえる大都市なのに、真昼間の市街地は異様な静けさに包まれていた。こちらには見えないどこかから神経を研ぎ澄ました人々が、じっと息をひそめて周囲の様子を窺っているかのような沈黙の町。なんだかわからないけど、なんとなく陰気な町だ・・・それが光州に抱いた第一印象でした。ちなみに当時、私は1980年5月に起きた光州の惨劇について、全くなんらの知識も関心もない怠惰な学生でした。

 今年は光州民主化抗争40周年を迎える光州に赴き、追悼行事や学術イベントに出席することになっていました。コロナ禍がそうした予定を全て押し流してしまい、こうして人との接触を遮断された中で息をひそめた生活をしながら、これはひょっとしたら光州抗争後の、〈アカ〉や〈容共分子〉のレッテルを怖れる人々が醸していた、あの張り詰めた空気をほんの少しだけ追体験してるんじゃないか?と思い至ったのです。1980年の5月も、いま私が見上げているのと同じ五月晴れの青空だったでしょう。そして1981年、82年、83年の5月もまた、人々は真っ青に晴れ渡った同じ空の下にいたことでしょう。

 光州抗争といえば「ニムのための行進曲」といわれるほどに、この運動歌謡はあまりにも有名です。昨年夏、香港のデモでプロテスト・ソングとして歌われたことで、より広く知られるようになったのではないでしょうか。

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 しかし「ニムのための行進曲」が作られ、演奏と録音がされたのは、ファン・ソギョンという作家がくらしていた光州の一軒家で、窓という窓を幕で覆い、音が漏れないよう隙間という隙間をくまなく目張りした中、極度の緊張感に包まれながらでした。1981年から82年にかけてのことです。この歌は、市民軍のスポークスマンを務め、5月27日未明に道庁で銃殺された尹祥源と、70年代に尹とともに労働夜学の活動をし、78年に練炭中毒で死んだ朴琪順との死後結婚に手向けるために作られました。このあたりの詳しい経緯や歌詞などは、拙著『光州事件で読む現代韓国』に書いたので端折ります。ここで何が言いたいのかというと、そもそもこの歌は、デモで堂々と拳をあげて歌う威勢のよいプロテスト・ソングというよりは、鬱屈した時代の窒息しそうな空気の中で、息をひそめながら、それでも語っておかねばならない出来事の記憶、死者たちの「ことば」を語り伝えるために作られ、楽器の伴奏とともに歌われて、弔い歌としてカセットテープに記録された時代の証言であった、という事実です。

 今般、日本でも政治風刺の歌や映像がYouTubeにアップされ、拡散されては、削除される現象がみられますが、そんなものは比ではない。はるかに過酷な政治弾圧のもと、この歌は1987年6月抗争がもたらした民主化の日まで、常に張り詰めた意識をもって、息をひそめながら非合法に歌い継がれてきたのです。まず、そのことをはらわたから知ってほしい。

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(写真:尹祥源烈士の父・尹錫同さんと)


 さて、本題はここからです。

 「歌のなかに埋められた言葉を」を書き継ぎながら、何度となく言及した「ニム」という言葉について。ニムは「あなた、君」を指す二人称ですが、思慕する対象としての祖国など、擬人的に用いられることもあります。「ニムのための行進曲」が作られ、非合法に歌われていた頃、韓国の巷に流れたふたつの歌を紹介します。

 

丁秀羅「少女兵士 소녀와 병사1984年)

丁秀羅(チョン・スラ、1963年~)の歌を初めて聴いたのは、初めて光州を訪れたあの84年の夏でした。ちょうどロス五輪のさなか、ソウル五輪を4年後に控えた韓国の町は、異様に明るく元気いっぱいだった。巷にさかんに流れていたのは「ああ!大韓民国」という“健全歌謡”でした。1983年、全斗煥政権は、歌手はアルバム制作にあたり無条件“健全歌謡”を収録するよう強制しました。健全歌謡の多くは軍歌調の勇ましいものでしたが、丁秀羅の「ああ!大韓民国」はポップ調で大人気を博します。他の歌手の場合、健全歌謡は添え物的、アルバムの中の日陰者みたいな存在ですが、丁秀羅は逆に健全歌謡のおかげでスターダムへと駆け上がるのです。(「ああ!大韓民国」のYouTubeをリンクするので、オリンピックを控えた当時の雰囲気だけでも味わってみてください。)

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帰国後、大阪で知り合った在日韓国人の青年から、地球レコードが制作したLPレコード「丁秀羅・地球専属1集」の海賊版テープをもらい受けました。丁秀羅の可憐な歌声、特に澄んだ高音域に聞き惚れて、夜も日もなく、擦り切れるほど繰り返し聴いたテープの中に、今日のブログ記事の主人公となる“二人の「ニム」”が歌われていたのです。

一人目は「少女と兵士」に登場する、思慕する対象としてのニム=「祖国」です。

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「少女と兵士」歌詞

나는 애인이 있었죠 우리는 너무도 사랑했는데 전우의 품에 안겨 님은 잠들고 추억은 여기 남아 있어요 뜨거운 님의 숨결은 내 마음에 살아 있어요 님이여 님이여 눈물을 흘리면서 부를 수 없는 그 이름 님이여 님이여 님은 나에게 조국을 사랑하게 했어 끝 없이 강물은 흐르고 철따라 꽃들은 다시 피는데 지금도 불어 오는 바람 속에는 그리운 그 목소리 들려요 뜨거운 니므이 사랑은 내 마음에 메아리쳐요 님이여 님이여 눈물을 흘리면서 부를 수 없는 그 이름 님이여 님이여 님은 나에게 조국을 사랑하게 했어요

 

私には恋人がいたの 

私たちはとても愛し合っていたのに、戦友のふところに抱かれ、あなた(ニム)は眠り

思い出だけがここに残っているわ

熱いあなたの息づかいは、私の心に残っているわ

ニムよ、ニムよ、涙を流しながら、呼ぶことのできないその名前

ニムよ、ニムよ、あなたは私に祖国を愛させたの

はてしなく河は流れ、季節めぐるごとに花々は咲くけれど

今でも吹きくる風の中から、愛しいその声が聞こえてくるの

熱いあなたの愛が私の心に響いてくるの

ニムよ、ニムよ、涙を流しながら、呼ぶことのできないその名前

ニムよ、ニムよ、あなたは私に祖国を愛させたの

 

 

歌詞を読んでみて、どう感じたでしょうか?

少女の戦死した恋人(あなた=ニム)は、戦友とともに祖国のふところに抱かれている。私は大切な恋人であるあなたを失ったけれど、あなたが祖国に殉じたことで、私は祖国を(あなただと思って)愛するようになった、というのです。つまり思慕する恋人は、肉体の死を超えて、擬人化された「祖国」に一体化されたニムとなった。ここでいう「祖国」とはいうまでもなく、分断以降の反共イデオロギーを是とした独裁政権下の「祖国」です。

今からこの歌を振り返ると、ずいぶん右翼的で違和感を抱くでしょうが、わずか40年前にはこちらが主流で、むしろ当たり前の国家観であり、死生観だったといえます。

「ニムのための行進曲」は、そうした同時代の潮流、世の中の主流がどんなものであったかを踏まえたうえで、その深いところの意味を斟酌しなくてはならない歌です。すでにいろんなところで書いたので繰り返しませんが、「ニムのための行進曲」における「ニム」は、「少女と兵士」に歌われた「祖国」とは真っ向から対峙する、もうひとつの「祖国」を志向しているからです。もし私たちがこの歌を歌いたいのなら、歌がみずから背負い込んだその厳しさを、日々、内面化しながら歌い継がなくてはならないと思います。

 

丁秀羅「葉露 풀잎 이슬」(1984年)

 「少女と兵士」が収録された同じアルバムに、「葉露」という歌が収められています。メロディを聞いただけで、とても悲しくなる歌です。そして、ここにも慕わしく愛しい「ニム」が現れています。二人目の「ニム」です。

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「葉露」歌詞

새벽안개 걷히면 님이 오시려나 바람소리 그치면 님이 오시려나 오늘도 떠오른 아침해는 어둠을 씻으며 오르는데 떠나버린 그님은 돌아오지 않고 풀잎마다 이슬은 나를 울려주네 산새들이 잠들면 님이 오시려나 달과 별이 보이면 님이 오시려나 오늘도 고요한 솔밭길엔 그리운 옛날이 남았는데 떠나버린 그님은 돌아오지 않고 풀잎마다 이슬은 나를 울려주네

 夜明けの霧が晴れたら、あなた(ニム)は帰っていらっしゃるかしら

 風の音がやんだら、あなたは帰っていらっしゃるかしら

 今日も朝陽は暗闇をすすぎながら昇ってくるのに

 去ってしまったあなたは戻らず、木々の葉に宿った露が私を泣かせるの

 山鳥たちが眠ったら、あなたは帰っていらっしゃるかしら

 月と星が見えたら、あなたは帰っていらっしゃるかしら

 今日も静かな松林の道に、恋しい昔の日々が残っているのに

 去ってしまったあなたは戻らず、木々の葉に宿った露が私を泣かせるの

  

 これまで何度も書いたように、この歌は愛する人との離別を悲しむシンプルな失恋歌なのかもしれません。しかし一方で、「言葉のなかに埋められた言葉」を探り当てようとする同時代の「歌を求める人々」にとっては、この歌もまた、掘り起こされるべき隠喩に満ちています。同じ年に発売されたシン・ヒョンウォンの「火種」が光州を歌っていたのではないかと囁かれていたように(https://gwangju.hatenablog.com/entry/2019/03/02/154315)、この歌に登場する「ニム」もまた、光州に散った死者たちと、軍靴に踏みにじられ、遠のいてしまった「民主祖国」を暗示していたように思われてならないのです。なぜなら、「葉露」のメロディは、まるでレクイエムのようだからです。

 1982年2月、「ニムのための行進曲」が初めて披露された死後結婚式、光州望月洞墓地にある尹祥源の墓前で、詩人の文炳蘭が詠みあげた祝詩「復活の歌」の結びに次のような言葉があります。

 

  素足に突き刺す茨のなかより、めぐりくる君!

  焼酎にしみた強い香りのなかより、めぐりくる君!

  ぴりりとした唐辛子粉の匂いのなかより、めぐりくる君!

 

 あるいは、光州抗争の口火を切る1980年5月14日の民主大聖会で名演説をし、82年に獄死した全南大の総学生会長・朴寛賢の鎮魂祭でうたわれた次なる詩の一節。

 

  ああ、雨が降れば、雨のなかから

  雪が降れば、雪道のうえから

  秋が来れば、木々の梢のなかから

  ふいとわれわれを訪ね、さまよっている

  君よ、世上天地のまぎれもない君よ

  いまこそ行きたまえ、安らかに眠りたまえ

 

 これらの詩の言葉に触れたとき、真っ先に脳裏によみがえったのが「葉露」のメロディ、そして丁秀羅のまっすぐに研ぎ澄まされた歌声でした。死者は茨のなか、焼酎の香りのなか、唐辛子粉の匂いのなかに、そして雨のなか、雪道のうえ、木々の梢のなかに、つまり生者をとりまく神羅万象に宿っている。もちろん葉露のなかにも。光州の死者を弔うこれらの詩と、この歌とは、そんなアニミズム的な死生観で結ばれています。

 もうひとつ、木々の葉に宿る「露」を歌ったこの歌は、死の匂いを含みながら、夜明け、昇る朝陽で歌い始められます。これは韓国民主化運動で最も愛されてきた「朝露」(1971年に作られ、75年に禁止歌とされた)の世界観とも響きあっているのではないでしょうか。

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 丁秀羅はひとつのアルバムのなかで「ああ!大韓民国」を歌い、性格の全く違った二人の「ニム」を歌いました。私と同い年の彼女は当時21歳。この引き裂かれたイメージの二人の「ニム」を、同時に身に引き受けながら歌うこと。それは当時の韓国社会が背負わされたジレンマそのものだったと思います。

 そして、あの時代の蹉跌を、私たちは決して忘れてはならないと思うのです。長く苦しい民主化の闘いに散っていった死者たちの、花開けなかった貴い生命を「むだに盗む」ことのないように。