言葉のなかに埋められた言葉を② ―学生街のシン・ヒョンウォンin 1984―

 前回に引き続き、和合亮一さんの詩「風に鳴る」を手掛かりに、1980年代の韓国歌謡を振り返ります。

 

ある日のことです

ある言葉が消えてしまったのです

わたしの家の庭には、今もまだ

土の中に土が埋められています

言葉の中に言葉が埋められています

土から土を 言葉から言葉を

掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか

電信柱に呟いてみました

電線が風に鳴って

電線が風に鳴りました

 

 私の記憶では、シン・ヒョンウォン(辛炯琬、1958年~)ほど80年代の学生街に似合う歌手はいなかったと思います。憂いを含んだ力みのない歌唱で、どこか旋律に翳りのある歌を淡々と歌っている印象がありました。ストレートのロングヘアに、当時流行りの黒縁メガネをかけた彼女は、その独特の声質ともあいまって、とてもアンニュイなイメージを醸していました。シン・ヒョンウォンが歌う歌詞はどれも隠喩めいていて、あの頃、街に流れていた歌のタイトルだけ思い浮かべても、「火種」「ガラスの壁」「蛍」「予期せぬ風」など、どれも儚げなイメージを想起させるものでした。うがった見方をすれば、1980年代前半という暗鬱な時代に、それは厭戦的で敗北主義的な響きすら帯びていたのではないかと思えるのです。

 

유리벽(ガラスの壁)」(1984年)

 そもそも冒頭にあげた詩人・和合亮一の問いかけが私の心に留まったのは、久しぶりに聴いたシン・ヒョンウォンがきっかけでした。「유리벽」(ガラスの壁)をYouTubeで聴きながら、そこに書き込まれた一つのコメントに視線が吸い寄せられてしまったのです。

 

セウォル号惨事の追悼行事で使われたらよいのにと思います。歌詞が胸に迫ってきま

す。」

 

この書き込みは「4年前」となっているので、済州島に向かう約400人の修学旅行生を乗せた大型旅客船セウォル号の沈没事故(2014年4月16日)から、まだ日が浅かったのでしょう。

 なぜ、セウォル号惨事の追悼行事にこの歌を?

 歌詞については後から紹介するとして、まずは光州抗争を描いた版画「5月」の連作で著名な洪成潭(ホン・ソンダム)が「セウォル・オウォル」と題して描いた作品の一部をみていただきたいのです。船室のガラス窓のあちら側、取り残された子どもたちの苦悶にゆがむ表情を―――。間近に顔と顔を寄せあい、こちら側とあちら側とで手のひらを合わせることだって出来るのに、生と死を隔てる非情なガラスの壁を。

 

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 その後、また違うユーザーがこんな書き込みをしています。

 

 「薄いガラスの壁を、多くの歳月(セウォル)が流れすぎようと、破ることのできない私。そして諦念した、このガラスの壁・・・」

 

 もちろん、これは字義どおりに受けとるべきコメントかもしれません。しかし投稿者の意図とは無関係に、そこに記された「歳月」という言葉から、隠されたもう一つの言葉を掘り出そうとする読み手もいるにちがいありません。

 珍島沖に沈んだその船の名は漢字では「世越」と書くのですが、これは「歳月」と同じ音で、セウォル(세월)と読みます。セウォル号を歳月と引っ掛けて語る言い方は、たとえば「セウォルが流れても」(パク・キョンホ、2014年)という版画作品のタイトルにも表れています。そこに描かれるのはセウォル号で犠牲になった女子高生と、背後で彼女を救助しようと抱きかかえる潜水士です。

 ですから、前述のコメントは、投稿者自身がすごしてきた人生の歳月であると同時に、“セウォル(歳月)が流れても”一向に真相究明の進まないセウォル号惨事に対する焦燥と、この事件があらわにした韓国社会の不条理を前になすすべのない無力感や、自身にも帰せられる罪責感を言い表している、とも受け取れるのです。

 

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 これらのことを踏まえて、シン・ヒョンウォンの「유리벽」(ガラスの壁)に今いちど耳を傾けると、それはたしかにセウォル号惨事の歌でもある、ということに気づかされるのです。船は、高校生たちの「友情」と、生きていれば未来に紡がれたであろういくつもの「愛」をガラスの壁に閉じ込めたまま、此岸から手を伸べる愛する人々の目前で非情にも沈んでいったのでした。

 

*歌詞

 私があなたの手を取ろうとしても つかめなかった

 目には見えない その何かが 私を悲しませたの

 

 私には感じられる ぶつかってくるその音が

 友情も 愛も ガラスの壁の中に閉じ込められていたの

 

 ガラスの壁 ガラスの壁 誰にも破ることができない

 誰もが知らんふりしている 目には見えないガラスの壁

 

 (間奏)

 

 私には感じられる ぶつかってくるその音が

 友情も 愛も ガラスの壁の中に閉じ込められていたの

 

 ガラスの壁 ガラスの壁 誰にも破ることができない

 誰もが知らんふりしている 目に見えないガラスの壁

 

 

내가 너의 손을 잡으려 해도 잡을 수가 없었네 
보이지 않는 그 무엇이 나를 슬프게 하였네

나는 느낄 수 있었네 부딪히는 그 소리를 
우정도 사랑도 유리벽 안에 놓여있었네 

유리벽 유리벽 아무도 깨뜨리질 않네 
모두가 모른 척하네 보이지 않는 유리벽 

(간주)

나는 느낄 수 있었네 부딪히는 그 소리를 
우정도 사랑도 유리벽 안에 놓여있었네

유리벽 유리벽 아무도 깨뜨리질 않네 
모두가 모른 척하네 보이지 않는 유리벽 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=EqX6DotZ4nI

 

こうして言葉のなかに埋められた言葉が掘り出されることで、1984年に世に出たこの歌は、ふたたび意味を与えられた現代の歌となるのです。

 

불씨(火種)」(1984年)

 1984年、シン・ヒョンウォンは前述の「유리벽(ガラスの壁)」とともに、「불씨(火種)」でデビューしています。この歌もまた、虚無感と切なさに包まれた旋律と、独特の隠喩的な詩の世界からなっています。

 

*歌詞

 誰が私を愛したからといって

 今はもう 愛の火花を燃やせない

 悲しい私の愛は 風に飛んで

 熱い涙の中へと消えていったの

 

 空っぽの胸に 灰だけが残った

 火種よ 火種よ もう一度 火をつけて

 

 とうとう火種は絶えて 消えてしまった

 今はもう 愛の火花を燃やせない

 

그 누가 나를 사랑한다고 해도 
이젠 사랑의 불꽃 태울 수 없네
슬픈 내사랑 바람에 흩날리더니
뜨거운 눈물 속으로 사라져버렸네

텅빈 내 가슴에 재만 남았네
불씨야 불씨야 다시 피어라 

끝내 불씨는 꺼져 꺼져 버렸네 
이젠 사랑의 불꽃 태울수 없네 

https://www.youtube.com/watch?v=JNv__84JW2U

 

歌詞を素直に読めば、これは愛を失い虚無にたたずむ失恋の歌として、すんなりと受け止められそうです。

しかし「歌を求める人々」は、「火種」や「灰」といった言葉の中から、そこに埋められたもうひとつの意味を掘り当てたはずです。

当時、民主化運動の人々の口から「民主の火種」という言葉が語られるのを、しばしば見かけた記憶があります。朴正熙政権の独裁に抵抗した1979年10月の釜馬抗争、朴正熙暗殺をはさんで、民主化への希求が高揚した1980年「ソウルの春」、そして民主化の気運を銃剣で踏みにじった全斗煥の新軍部に対峙して、市民たちが激しい抵抗の火花をあげた5月の光州抗争。しかしそれは空挺部隊の投入により、おびただしい犠牲とともに、実にあっけなく制圧されてしまった。こうしてある者は死に、ある者は獄につながれ、ある者は地下に潜る。この歌が街に流れた1984年とは、いまだそんな時代でした。光州を生き延びた者たちは死者たちの無念を身にまとい、闘いの火花が鎮火された後もかすかにくすぶる「民主の火種」を絶やさぬよう、来たるべき時に備えて運動理念を鍛えつつ、雌伏の時をすごしていたのです。

 「灰」という言葉も、民主化運動の場面でよく使われてきました。「彼は一握りの灰になってしまった」といえば、それはまつろわぬ無念の死を意味しました。また決死の覚悟を述べる時には、その比喩として「この身が一握りの灰になろうとも」という表現が使われました。

天寿をまっとうすることに価値をおく朝鮮儒教の規範では、子孫を残して安らかな死を迎えた者には葬礼を施し、土葬の墓を造営し、子々孫々にわたって祭祀を営むことになります。一方、そうでない死者については屍を墓標もなく野山に葬り去るか、火葬した骨粉を野山や川に撒いてしまうかして、その人が生きた痕跡すらも消し去ってしまうのです。天寿をまっとうできなかった死者とは、年端いかない者や未婚者の死はもとより、変死、客死、自殺、事故死など、日本風にいえば「畳の上で死ぬ」ことができなかった人たちも含まれます。つまり「一握りの灰」とは、この世に怨恨や未練を残して死んだまつろわぬ死者の象徴であり、よって、義憤を抱いて死んだ民主化運動の犠牲者たちの行く末を暗示する言葉にもなりえるわけです。

 シン・ヒョンウォンは歌います。火花は燃え尽き、灰だけが残った、と。だが、物語はそれで終わってしまうのだろうか?

 民主化運動の語りでは「民主の祭壇に身を捧げる」という表現もよくなされます。1980年6月4日、情報統制下のソウルで光州の惨劇をいち早く訴えようとした労働者・金鍾泰は、光州の犠牲者たちに報いるためなら、この身を火にくべても惜しくはないと言って、いけにえとしての焼身自殺をとげました。彼は、光州の灰の中から「民主の火種」を拾い集め、自分の身に火をつけることで、これをふたたび燃え上がらせようとしたわけです。たとえ、「この身が一握りの灰になろうとも」―――。

 シン・ヒョンウォンは絶唱します。

 

火種よ 火種よ もう一度 火をつけて!

 

 光州の惨劇をへた政治の冬の季節にあって、「불씨(火種)」は、言葉のなかに埋められた言葉を掘り出そうとする人々にとって、運動の再燃と勝利を期するプロテストソングにもなりえたのではないでしょうか。

 事実、2006年9月10日付のハンギョレ記事「大衆―民衆歌謡を行き来する“輝かしい例外”」によれば、「불씨(火種)」は発売当時、すでに一部のあいだでは光州を描いた歌とささやかれ、格別に受け入れられたとのことです。「유리벽(ガラスの壁)」と「불씨(火種)」のプロデューサーがソ・ヒドクというDJ出身の人物だったことが示唆するように、これらの歌はラジオの電波に乗り、音楽喫茶で多くのリスナーに知られることになりました。

http://www.hani.co.kr/arti/PRINT/155828.html


 1987年、シン・ヒョンウォンはさらに「개똥벌래(蛍)」「터(土地)」というヒット曲を放ちます。その頃、私はソウルの学生街にある音楽喫茶で、リアルタイムでその歌声を聴きました。そしてシン・ヒョンウォンの歌の世界に深い感銘を受けました。次回はこの1987年の2つの歌を取り上げたいと思います。