言葉のなかに埋められた言葉を③ ―朝になれば去りゆくあなたへ:金鍾燦の別れ歌―

パク・レグンさんのこと―四半世紀を超えて

 今回はシン・ヒョンウォンの続編として1987年の「터」(地)を取り上げるつもりでしたが、ハノイでの米朝会談が合意に至らなかったとの報を受け、「統一」を謳いあげたこの歌は他日を期することにしました。

 先週、韓国に行ってきました。目的のひとつが「人権財団サラム」代表のパク・レグンさんに会うことでした。パクさんとの面会は3度目の正直でした。1度目は2015年3月にソウルの香隣教会でほんの一言あいさつを交わしただけですが、パクさんの方は全く記憶にないそうです(泣)。2度目は昨年7月に会う約束でしたが、ソウルに着いた日の早朝に、1987年1月の水拷問事件で犠牲となったソウル大生・朴鍾哲のアボジ、朴正基さんが亡くなったため、葬儀を取り仕切るパクさんの時間がとれなくなり、鍾路3街のコーヒーショップで小一時間ほど話をしただけで別れました。

 パク・レグンという名前を知ったのは1993年か94年のことです。民主化運動における犠牲者たちについて調べ始めたばかりの頃、毎日、ソウルの南山図書館にこもって雑誌や新聞の記事を渉猟していました。私はその名前を、ある進歩的な月刊誌のなかに見つけたのです。

1991年4月26日、デモの渦中で機動隊に殴り殺された姜慶大という学生の葬儀の模様について、とりわけ遺族たちに焦点をあてた描写がなされていました。運動によってわが子を喪った親たちの心理に関心を寄せていた私には、まさに必読の記事でした。しかし、それにもまして私の目を釘付けにしたのは、「パク・レグン」という著者の名前でした。

1970年11月13日に勤労基準法の遵守を訴えて焼身自殺した全泰壹から、1980年代をへて、1991年の姜慶大の死とそれに続く抗議の自殺者たちのなかに、1988年6月4日に「光州は生きている!」と叫んで焼身自殺をとげた「パク・レジョン」という学生がいたのです。

パク・レジョンと、パク・レグン。

韓国で、特に男児の名づけには「トルリムチャ」(行列字)が使われます。「トルリムチャ」とは、兄弟や(代を同じくする)親戚のあいだで共有される文字のことです。この場合は「来(レ)」の字を共有する朴(パク)氏として、私にはなんとなくパク・レグンという書き手がパク・レジョンの兄弟か、そうでなくとも、ごく近しい親戚のように見受けられたのです。とても偶然のようには思えませんでした。

以来、ずっと気にかけてきました。雑誌などでパク・レグンの名を見つけると必ず目を通し、数年前にFacebookでその名を見つけた時にはすかさずフォローしました。

2014年4月16日のセウォル号惨事の後、Facebookのパク・レグン氏はいち早く「4・16連帯」という支援団体を立ち上げ、真相究明を求めて、遺族たちに寄り添って共闘していました。その姿をリアルタイムで追いながら、この人はパク・レジョンとはあまり似てないけれど、間違いなくパク・レジョンの兄弟だと、確信を深めていったのです。

もし、パク・レグンなる人物が本当にパク・レジョンの兄弟だとしたら、この人は一体どんな悲しみと心的外傷を抱え、また活動家としてどれほどの辛酸を舐めながら、現在に至ったのだろうか?と、プロフィール写真の柔和な笑顔を眺めては考え込んでいました。これはパクさんと実際に出遭うまで、実に四半世紀にわたり巡らせてきた思いでした。

2015年3月末、私はたまたま出席していた明洞の香隣教会で、図らずもパク氏の講演を聴く機会を得ました。セウォル号で亡くなった高校生の親たちの嗚咽に包まれた生々しい証言に続いて、厳しい表情を浮かべたパク氏による現状説明に耳を傾けました。

講演後、簡単な挨拶だけさせてもらいました。確かめたかったのは、ただ一つのこと。

「先生はパク・レジョン烈士のご遺族ですか?」

「はい、レジョンは弟です。」

 それだけ応えると、足早に教会を後にして行きました。教会周辺には私服警官がたむろし、出入りする人々に鋭く目を光らせていました。さほど日をおかず、彼は突然、これといった罪状もなく警察に拘留され、しばらく出てきませんでした。セウォル号惨事1周忌の追悼行事が目前に迫るタイミング。朴槿恵政権による国策逮捕国策捜査としか思えませんでした。

拘留中にある人がFacebookに投稿した記事を通じ、パクさんがかつて民主化運動犠牲者の遺族会(現・全国民族民主遺家族協議会)で事務局長だったこと、私が遺族会に通い始めたのは、彼が事務局を辞めたのとほぼ入れ違いだったことを知りました。

 

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「人権財団サラム」代表のパク・レグンさん、スタッフのユン・ジソンさんと

 

金鍾燦「사랑이 저만치 가네(愛が離れて行くね)」(1987年)を聴きながら

 ソウルに向かうアシアナ航空の機中で、数十年ぶりに金鍾燦(キム・ジョンチャン)のバラードを聴きました。「사랑이 저만치 가네(愛が離れて行くね)」(1987年)を耳にした時、胸が塞がれそうになりました。

1988年初秋、私はこの歌を慶熙大学近くの喫茶店で初めて聴いたのです。1年間の留学生活を終えて帰国する数日前のことです。向かい合ってお茶を飲んでいる男子学生は恋人でも何でもないのに、やけに切ない気持ちにさせられるのです。

https://www.youtube.com/watch?v=cVRPknBH7mM

 

*「사랑이 저만치 가네(愛が離れて行くね)」歌詞

사랑이 떠나 간다네 이 밤이 다 지나가면

우리의 마지막 시간을 붙잡을 수는 없겠지

사랑이 울고 있다네 이별을 앞에 두고서

다시는 볼 수 없음에 가슴은 찢어지는 데

 

愛が去って行くね この夜が過ぎ去れば

ぼくたちの最後の時間は この手から離れてしまうんだね

愛が泣いているね 離別を前に

二度と会えないことに 心は泣いているのに

 

이제 이별의 시간이 다가오네 사랑이 떠나가네

나는 죽어도 너를 잊지는 못할거야

아침이면 떠날 님아

 

もう離別の時が近づいている 愛が去って行く

ぼくは死んでも 君を忘れないだろう

朝になれば去りゆくあなたよ

 

사랑이 저만치 가네 나 홀로 남겨놓고서

세월아 멈춰져 버려라 내 님이 가지 못하게

 

愛が離れて行くね ぼく一人を置き去りにして

歳月よ 止まってしまえ ぼくのあなたが行ってしまわぬように

 

이제 이별의 시간이 다가오네 사랑이 떠나가네

나는 죽어도 너를 잊지는 못할거야

아침이면 떠날 님아

 

もう離別の時が近づいている 愛が去って行く

ぼくは死んでも 君を忘れないだろう

朝になれば去りゆくあなたよ

 

사랑이 저만치 가네 나 홀로 남겨놓고서

세월아 멈춰져 버려라 내 님이 가지 못하게

내 님이 가지 못하게 내 님이 가지 못하게

 

愛が離れて行くね ぼく一人を置き去りにして

歳月よ 止まってしまえ ぼくのあなたが行ってしまわぬように

ぼくのあなたが行ってしまわぬように

ぼくのあなたが行ってしまわぬように

 

 今さらのように歌詞を注視してみると、「너(ノ)」と「님(ニム)」という二つの二人称が使い分けられています。近しい間柄で呼び合う「ノ」は「君、あんた」程度の軽いニュアンスといっていいでしょう。対して「ニム」は、「言葉のなかに埋められた言葉を①」で書いたように(https://gwangju.hatenablog.com/entry/2019/02/25/134937)、思慕する対象としての「あなた、そなた」を指し、時に祖国などの擬人化された対象に対しても投げかけられる呼称です。

 「ノ」と「ニム」が混在したこの歌の主人公は、一体、誰に向けて離別の悲しみを歌っているのだろうか?

 先に紹介したチョー・ヨンピル、シン・ヒョンウォンもですが、この歌もまた「歌を求める人々」にとって、言葉のなかに埋められた言葉を掘り起こさせる歌だったのではないかと思うのです。一見、恋人との切ない別れの歌のようでありながら、死別の歌とも受け取れるからです。

 

「朝になれば去りゆくニムよ」

 日本でも葬儀の前に「通夜」を行うように、一日と一日の境界にある「夜」はこの世からあの世への過渡を象徴する時間です。

むかし、京畿道のある村で、巫女(ムダン)が取り仕切る死霊祭(葬儀)に立ち会ったことがあります。死者の霊を降ろして口寄せしたり、死者を極楽に送って下さいと祈願したりといった、いくつもの祭儀を夜通しで行なった後、最後に「キル・タックム(道磨き)」と呼ばれる手順を踏みます。

東の空が白み始める頃、全員で中庭に出て、あの世への道を象徴する白布を延べてから、その真ん中を裂くようにして、ゆっくりと巫女が前に進む。裂かれた布が真っ二つになった時、あの世への道が開かれ、死者は完全にこの世から去ってしまうのです。巫女の体が最後の1ミリを突破した直後に、遠くから一番鶏が啼くのが聞こえました。

「朝になれば去りゆくニムよ」の一節に、私はあの時、目にしたキル・タックムの光景をしばしば重ねたものでした。

なお、キル・タックムのモチーフは、1987年6月抗争の犠牲者・李韓烈の民主国民葬において、舞踊家の李愛珠(当時・ソウル大教授)が鎮魂の創作舞踊の中に取り入れています。

 

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全羅南道珍島の「キル・タックム」

 

されど、「ぼくのニムが行ってしまわぬように」と・・・

 韓国語では「死」に対しても、「行く」「送る」などの動詞がよく使われます。たとえば、1987年6月9日に催涙弾に斃れ、7月5日に亡くなった李韓烈の追慕写真集のタイトルは『君は行くのか、どこへ行くのか』というものでした。

 セウォル号が沖合に沈む珍島の港に、「オンマ(母ちゃん)の黄色いハンカチ」が結わえ付けられているのを見ました。2015年3月のことです。

 

  2014.4.16
この日の前日に戻れるものなら
おまえたちを抱きしめて
絶対どこへも送らない(=行かせない)
本当にごめんね・・・

 

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珍島港の「オンマの黄色いハンカチ」:2015年3月撮影

 

 「絶対どこへも行かせない」には、物理的な移動に限らず、直截にいえば「死なせない」(=あの世へは行かせない)という含意があります。「ぼくのニムが行ってしまわぬように」という金鍾燦の歌詞からも、同様の意味が汲み取れるのではないか。

セウォル号惨事の遺された親たちは「この日の前日に戻れるものなら」と嘆き、金鍾燦は「歳月よ、止まってしまえ」と歌います。生きて別れる場面でもこのような仮定法は可能でしょうが、もう今生では二度と会うことのない別れであればこそ、もはや巻き戻せない時間をめぐる仮定法は、まるで身が引きちぎられるような、切実なまでの後悔として歌われるのではないでしょうか。

 1988年6月4日、25歳になった誕生日の翌日に「天下の不孝者をお許しください」で始まる父母あての遺書を残し、「光州は生きている!」と叫んで自分の身に火をつけたパク・レジョン。光州で灰になった「民主の火種」をふたたび燃え上がらせようと、「一握りの灰」になることを自らに任じたパク・レジョン。

パク・レグンさんのオフィスに併設された追慕室に、焼け残ったジーンズの布切れが遺品の一つに納められているのを見ました。それは本当に一片の布切れでした。どれほど激しく身を焼いたのか、想像せずにはいられませんでした。

そして「炭の塊」と変わり果てた弟を、一つ違いの兄はどんな思いで見送ったのか・・・とも。パク・レグンさんは焼け残った布を指して、「韓国では元来、こうした死者の遺品は全部焼いてしまうものですが、私たちはあえてそうしませんでした」と説明しました。

それは、金鍾燦の言葉を借りれば「ぼくのニムが行ってしまわぬように」ということではなかったか? 弟レジョンを含めた全ての死者を記憶し忘れずにいることで、死者たちが命に代えて渇望した理想の社会を実現しようとするパク・レグンさんの生き方が、おのずとそう物語っているように思えます。たとえ時間は巻き戻せなくとも、死者を愛することで、死者たちは生かされる。それどころか生者のなかに遍在し、やがて生者たちの先頭に立って社会を動かす資源となる。いや、そうしなくてはならないのです。あえて遺品を残したことは、そんな決意の表れだったのではないでしょうか。

 ちょうどその頃、街には「ぼくのニムが行ってしまわぬように」とくり返し歌う、金鍾燦のバラードが流れていたのでした。

付言すれば、これは韓国民主化運動の根底に流れる独特の死生観です。私はそこに尹東柱の「序詩」にある、「全ての死にゆくものを愛おしまなければ」という一節を重ね合わせるのです。

 

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パク・レジョン烈士の墓:モラン公園

言葉のなかに埋められた言葉を② ―学生街のシン・ヒョンウォンin 1984―

 前回に引き続き、和合亮一さんの詩「風に鳴る」を手掛かりに、1980年代の韓国歌謡を振り返ります。

 

ある日のことです

ある言葉が消えてしまったのです

わたしの家の庭には、今もまだ

土の中に土が埋められています

言葉の中に言葉が埋められています

土から土を 言葉から言葉を

掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか

電信柱に呟いてみました

電線が風に鳴って

電線が風に鳴りました

 

 私の記憶では、シン・ヒョンウォン(辛炯琬、1958年~)ほど80年代の学生街に似合う歌手はいなかったと思います。憂いを含んだ力みのない歌唱で、どこか旋律に翳りのある歌を淡々と歌っている印象がありました。ストレートのロングヘアに、当時流行りの黒縁メガネをかけた彼女は、その独特の声質ともあいまって、とてもアンニュイなイメージを醸していました。シン・ヒョンウォンが歌う歌詞はどれも隠喩めいていて、あの頃、街に流れていた歌のタイトルだけ思い浮かべても、「火種」「ガラスの壁」「蛍」「予期せぬ風」など、どれも儚げなイメージを想起させるものでした。うがった見方をすれば、1980年代前半という暗鬱な時代に、それは厭戦的で敗北主義的な響きすら帯びていたのではないかと思えるのです。

 

유리벽(ガラスの壁)」(1984年)

 そもそも冒頭にあげた詩人・和合亮一の問いかけが私の心に留まったのは、久しぶりに聴いたシン・ヒョンウォンがきっかけでした。「유리벽」(ガラスの壁)をYouTubeで聴きながら、そこに書き込まれた一つのコメントに視線が吸い寄せられてしまったのです。

 

セウォル号惨事の追悼行事で使われたらよいのにと思います。歌詞が胸に迫ってきま

す。」

 

この書き込みは「4年前」となっているので、済州島に向かう約400人の修学旅行生を乗せた大型旅客船セウォル号の沈没事故(2014年4月16日)から、まだ日が浅かったのでしょう。

 なぜ、セウォル号惨事の追悼行事にこの歌を?

 歌詞については後から紹介するとして、まずは光州抗争を描いた版画「5月」の連作で著名な洪成潭(ホン・ソンダム)が「セウォル・オウォル」と題して描いた作品の一部をみていただきたいのです。船室のガラス窓のあちら側、取り残された子どもたちの苦悶にゆがむ表情を―――。間近に顔と顔を寄せあい、こちら側とあちら側とで手のひらを合わせることだって出来るのに、生と死を隔てる非情なガラスの壁を。

 

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 その後、また違うユーザーがこんな書き込みをしています。

 

 「薄いガラスの壁を、多くの歳月(セウォル)が流れすぎようと、破ることのできない私。そして諦念した、このガラスの壁・・・」

 

 もちろん、これは字義どおりに受けとるべきコメントかもしれません。しかし投稿者の意図とは無関係に、そこに記された「歳月」という言葉から、隠されたもう一つの言葉を掘り出そうとする読み手もいるにちがいありません。

 珍島沖に沈んだその船の名は漢字では「世越」と書くのですが、これは「歳月」と同じ音で、セウォル(세월)と読みます。セウォル号を歳月と引っ掛けて語る言い方は、たとえば「セウォルが流れても」(パク・キョンホ、2014年)という版画作品のタイトルにも表れています。そこに描かれるのはセウォル号で犠牲になった女子高生と、背後で彼女を救助しようと抱きかかえる潜水士です。

 ですから、前述のコメントは、投稿者自身がすごしてきた人生の歳月であると同時に、“セウォル(歳月)が流れても”一向に真相究明の進まないセウォル号惨事に対する焦燥と、この事件があらわにした韓国社会の不条理を前になすすべのない無力感や、自身にも帰せられる罪責感を言い表している、とも受け取れるのです。

 

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 これらのことを踏まえて、シン・ヒョンウォンの「유리벽」(ガラスの壁)に今いちど耳を傾けると、それはたしかにセウォル号惨事の歌でもある、ということに気づかされるのです。船は、高校生たちの「友情」と、生きていれば未来に紡がれたであろういくつもの「愛」をガラスの壁に閉じ込めたまま、此岸から手を伸べる愛する人々の目前で非情にも沈んでいったのでした。

 

*歌詞

 私があなたの手を取ろうとしても つかめなかった

 目には見えない その何かが 私を悲しませたの

 

 私には感じられる ぶつかってくるその音が

 友情も 愛も ガラスの壁の中に閉じ込められていたの

 

 ガラスの壁 ガラスの壁 誰にも破ることができない

 誰もが知らんふりしている 目には見えないガラスの壁

 

 (間奏)

 

 私には感じられる ぶつかってくるその音が

 友情も 愛も ガラスの壁の中に閉じ込められていたの

 

 ガラスの壁 ガラスの壁 誰にも破ることができない

 誰もが知らんふりしている 目に見えないガラスの壁

 

 

내가 너의 손을 잡으려 해도 잡을 수가 없었네 
보이지 않는 그 무엇이 나를 슬프게 하였네

나는 느낄 수 있었네 부딪히는 그 소리를 
우정도 사랑도 유리벽 안에 놓여있었네 

유리벽 유리벽 아무도 깨뜨리질 않네 
모두가 모른 척하네 보이지 않는 유리벽 

(간주)

나는 느낄 수 있었네 부딪히는 그 소리를 
우정도 사랑도 유리벽 안에 놓여있었네

유리벽 유리벽 아무도 깨뜨리질 않네 
모두가 모른 척하네 보이지 않는 유리벽 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=EqX6DotZ4nI

 

こうして言葉のなかに埋められた言葉が掘り出されることで、1984年に世に出たこの歌は、ふたたび意味を与えられた現代の歌となるのです。

 

불씨(火種)」(1984年)

 1984年、シン・ヒョンウォンは前述の「유리벽(ガラスの壁)」とともに、「불씨(火種)」でデビューしています。この歌もまた、虚無感と切なさに包まれた旋律と、独特の隠喩的な詩の世界からなっています。

 

*歌詞

 誰が私を愛したからといって

 今はもう 愛の火花を燃やせない

 悲しい私の愛は 風に飛んで

 熱い涙の中へと消えていったの

 

 空っぽの胸に 灰だけが残った

 火種よ 火種よ もう一度 火をつけて

 

 とうとう火種は絶えて 消えてしまった

 今はもう 愛の火花を燃やせない

 

그 누가 나를 사랑한다고 해도 
이젠 사랑의 불꽃 태울 수 없네
슬픈 내사랑 바람에 흩날리더니
뜨거운 눈물 속으로 사라져버렸네

텅빈 내 가슴에 재만 남았네
불씨야 불씨야 다시 피어라 

끝내 불씨는 꺼져 꺼져 버렸네 
이젠 사랑의 불꽃 태울수 없네 

https://www.youtube.com/watch?v=JNv__84JW2U

 

歌詞を素直に読めば、これは愛を失い虚無にたたずむ失恋の歌として、すんなりと受け止められそうです。

しかし「歌を求める人々」は、「火種」や「灰」といった言葉の中から、そこに埋められたもうひとつの意味を掘り当てたはずです。

当時、民主化運動の人々の口から「民主の火種」という言葉が語られるのを、しばしば見かけた記憶があります。朴正熙政権の独裁に抵抗した1979年10月の釜馬抗争、朴正熙暗殺をはさんで、民主化への希求が高揚した1980年「ソウルの春」、そして民主化の気運を銃剣で踏みにじった全斗煥の新軍部に対峙して、市民たちが激しい抵抗の火花をあげた5月の光州抗争。しかしそれは空挺部隊の投入により、おびただしい犠牲とともに、実にあっけなく制圧されてしまった。こうしてある者は死に、ある者は獄につながれ、ある者は地下に潜る。この歌が街に流れた1984年とは、いまだそんな時代でした。光州を生き延びた者たちは死者たちの無念を身にまとい、闘いの火花が鎮火された後もかすかにくすぶる「民主の火種」を絶やさぬよう、来たるべき時に備えて運動理念を鍛えつつ、雌伏の時をすごしていたのです。

 「灰」という言葉も、民主化運動の場面でよく使われてきました。「彼は一握りの灰になってしまった」といえば、それはまつろわぬ無念の死を意味しました。また決死の覚悟を述べる時には、その比喩として「この身が一握りの灰になろうとも」という表現が使われました。

天寿をまっとうすることに価値をおく朝鮮儒教の規範では、子孫を残して安らかな死を迎えた者には葬礼を施し、土葬の墓を造営し、子々孫々にわたって祭祀を営むことになります。一方、そうでない死者については屍を墓標もなく野山に葬り去るか、火葬した骨粉を野山や川に撒いてしまうかして、その人が生きた痕跡すらも消し去ってしまうのです。天寿をまっとうできなかった死者とは、年端いかない者や未婚者の死はもとより、変死、客死、自殺、事故死など、日本風にいえば「畳の上で死ぬ」ことができなかった人たちも含まれます。つまり「一握りの灰」とは、この世に怨恨や未練を残して死んだまつろわぬ死者の象徴であり、よって、義憤を抱いて死んだ民主化運動の犠牲者たちの行く末を暗示する言葉にもなりえるわけです。

 シン・ヒョンウォンは歌います。火花は燃え尽き、灰だけが残った、と。だが、物語はそれで終わってしまうのだろうか?

 民主化運動の語りでは「民主の祭壇に身を捧げる」という表現もよくなされます。1980年6月4日、情報統制下のソウルで光州の惨劇をいち早く訴えようとした労働者・金鍾泰は、光州の犠牲者たちに報いるためなら、この身を火にくべても惜しくはないと言って、いけにえとしての焼身自殺をとげました。彼は、光州の灰の中から「民主の火種」を拾い集め、自分の身に火をつけることで、これをふたたび燃え上がらせようとしたわけです。たとえ、「この身が一握りの灰になろうとも」―――。

 シン・ヒョンウォンは絶唱します。

 

火種よ 火種よ もう一度 火をつけて!

 

 光州の惨劇をへた政治の冬の季節にあって、「불씨(火種)」は、言葉のなかに埋められた言葉を掘り出そうとする人々にとって、運動の再燃と勝利を期するプロテストソングにもなりえたのではないでしょうか。

 事実、2006年9月10日付のハンギョレ記事「大衆―民衆歌謡を行き来する“輝かしい例外”」によれば、「불씨(火種)」は発売当時、すでに一部のあいだでは光州を描いた歌とささやかれ、格別に受け入れられたとのことです。「유리벽(ガラスの壁)」と「불씨(火種)」のプロデューサーがソ・ヒドクというDJ出身の人物だったことが示唆するように、これらの歌はラジオの電波に乗り、音楽喫茶で多くのリスナーに知られることになりました。

http://www.hani.co.kr/arti/PRINT/155828.html


 1987年、シン・ヒョンウォンはさらに「개똥벌래(蛍)」「터(土地)」というヒット曲を放ちます。その頃、私はソウルの学生街にある音楽喫茶で、リアルタイムでその歌声を聴きました。そしてシン・ヒョンウォンの歌の世界に深い感銘を受けました。次回はこの1987年の2つの歌を取り上げたいと思います。

言葉のなかに埋められた言葉を① ―1983年の趙容弼―

久しぶりのブログです。最後に更新したのが昨年9月、半年以上ものご無沙汰でした。

 昨年から今年にかけて民主化運動を扱った韓国映画が大ヒットし、その余波で私も多忙な日々を過ごすことになりました。11月に「1987、ある闘いの真実」に寄せて、現代ビジネスで2度目となる記事を書きました。

gendai.ismedia.jp

 

また12月公開のドキュメンタリー映画共犯者たち」「スパイネーション/自白」では、パンフレットに「声なき声の実在性」と題する解説を書かせていただきました。

 

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そんなこんなで1年があっという間に過ぎ去りました。思い返せば、2018年という年は四半世紀にわたる韓国民主化運動研究の総決算-初めて社会から必要とされアウトプットできたという意味で―だったとともに、初めて韓国を旅した1983年春以来、目で見て耳で聞いて肌で感じてきた韓国の風景を思い返す機会にもなりました。ことに大衆歌謡は韓国語の勉強も兼ねていつも熱心に聴いていたので、あるメロディを耳にするだけで街の風景と匂いとがひとかたまりになって蘇ってきます。

ことに昨年は、映画を通じて1980年代にタイムスリップしながら、そんな歌の数々をYouTubeで聴きなおすことを、折をみては繰り返していました。

 

「土から土を 言葉から言葉を」

ある日、書店で立ち読みした『文芸春秋』で、ひとつの印象的な詩とであいました。福島の詩人・和合亮一さんの「風に鳴る」です。

 

ある日のことです

ある言葉が消えてしまったのです

わたしの家の庭には、今もまだ

土の中に土が埋められています

言葉の中に言葉が埋められています

土から土を 言葉から言葉を

掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか

電信柱に呟いてみました

電線が風に鳴って

電線が風に鳴りました

 

 

 私が探していた「言葉」はこれだ。そう直感しました。1980年代の韓国が、光州事件の傷を記憶し、その後も続いた軍事独裁政権のもと、分断暴力による死と傷を数知れず経験していたのはいうまでもありません。当時、厳しい監視と情報統制により言葉が奪われ、光州の惨劇を公に語ることは許されず、「民衆歌謡」と呼ばれた運動歌は地下で非合法に歌われました。そんな「ある言葉が消えてしまった」言論弾圧の時代に、大衆歌謡の作り手たちは歌の言葉にどんな言葉を潜ませたのか。また大衆歌謡の聴き手たちはそこにどんな言葉を探り当てようとしたのだろうか?

 あの頃、私が好んで聴き、口ずさんでいた、巷に流れる歌たちには、憂愁をおびた旋律に乗せて、隠喩的な語彙を含んだものが多かったように思われるのです。

和合さんの詩を一目みて、すとんと腑に落ちたような気がしました。

 

土から土を 言葉から言葉を

掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか

 

 

 時代に向かってそう問いかける絶唱が、あの時代の韓国の歌たちだったのではないか、と思い当たったのです。

そこでこれから数回に分けて、私がいつも好んで聴いていた1980年代の韓国歌謡を取り上げながら、言葉のなかに埋められた言葉を掘り出す試みをしてみたいと思います。

初回はまず「永遠のオッパ」こと、趙容弼から―――。

ja.wikipedia.org

 

「チングよ」(1983年)

私の最初の韓国語教師は趙容弼でした。大学2回生になった1983年春、釜山に住むペンパルの男子学生が送ってくれたファースト・アルバム『窓の外の女』(1979年)のカセットテープを毎日擦り切れるほど聴いていました。映画「タクシー運転手―約束は海を越えて」のオープニングに使用された「タンバル・モリ」(おかっぱ頭)も、このアルバムの収録曲です。

1987年に留学生としてソウルで暮らすようになってからは、バスやタクシーの運転手が運転中に流すラジオやカセットテープ、またテレビの歌番組などを通じて、さまざまなジャンルの他の歌手たちの歌声にも触れることになりますが、それまでは趙容弼が私の唯一の韓国語の先生でした。

最近、ネットで調べ物をしていて偶然、2002年の『新東亜』に載った趙容弼のロング・インタビューを見つけました。http://shindonga.donga.com/Print?cid=102048

そこでは全斗煥政権の所謂「第五共和国」と趙容弼、そして当時さかんだった民主化運動勢力との関係についても言及され、たいへん興味深い話が語られていました。民主化運動に従事した学生たちは「チングよ」(友よ)を愛唱していたそうです。歌っている趙容弼自身に全くそんな意図はなかったのですが、彼らは監獄に連行される友を思って歌うばかりか、そもそも「チングよ」が自分たちの境遇を歌った曲だと確信していた。それで趙容弼に対して、とても深いシンパシーを抱いていたそうです。
 この話はちょうど私が趙容弼を聴いていた時代と重なります。私はこの歌を青春歌謡の一種と受け止めた以外は何も詮索することなく、字義どおりに旧い友を懐かしむ歌として「チングよ」を聴いていました。それなのに、同じ時代に、自分と同じ世代の学生たちが、この歌の言葉に「監獄に連行される友」を投影していたとは、なんと新鮮な驚きだったことでしょうか。

 光州の傷を引きずり、民主化を求める闘いのさなかで友を亡くし、また多くの仲間たちを監獄に捕らわれた当時の学生たちは、「チングよ」の詩の中から、言葉のなかに埋められた言葉を掘り出そうとしたわけです。

 

*歌詞

1.夢は空の上でまどろみ 思い出は雲に乗って流れ

  友よ 面影はどこへ行ったの? 恋しい友よ

2.昔のことを思い出すたび 忘れてしまった情を探して

  友よ 夢で逢えるだろうか 静かに目を閉じるよ

 

悲しみも 喜びも 寂しさも 分かち合ったね

青雲の夢を抱き 明日を誓いあった 堅い約束はどこへ

 

3.1を繰り返し

 

1.꿈은 하늘에서 잠자고 추억은 구름 따라 흐르고
친구여 모습은 어딜 갔나 그리운 친구여

2.옛일 생각이 날 때마다 우리 잃어버린 정 찾아
친구여 꿈속에서 만날까 조용히 눈을 감네

 

슬픔도 기쁨도 외로움도 함께 했지
부푼 꿈을 안고 내일을 다짐하던 우리 굳센 약속 어디에

 

3.꿈은 하늘에서 잠자고 추억은 구름 따라 흐르고
친구여 모습은 어딜 갔나 그리운 친구여

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=fCTbT85876s


「漢江」(1983年)

「漢江」は1980年代半ば、たまたま屋台で購入した海賊版のカセットテープに入っていた一曲でした。漢江(ハンガン)はソウル中央部を流れる大河で、江南(カンナム)と呼ばれる南岸一帯に立ち並ぶ高層アパート群は1970年代の高度経済成長の象徴とされ、「漢江の奇跡」ともてはやされました。

私が最初に感銘した漢江にまつわる語りは、1983年春に初めて韓国を旅したとき、川べりの道路を走るバスの中で、年配の女性ガイドが語った朝鮮戦争の話でした。北朝鮮人民軍の南下を阻止するために韓国軍が漢江大橋を爆破させ、多くの避難民たちが巻き込まれて犠牲になったといいます。彼女はこの話を次のような言葉で締めくくりました。

「漢江はいにしえの昔より、このようにわが民族の苦難の歴史を抱き、見つめつづけてきたのでございます。」

 漢江を擬人化し、連綿と続く民族史のなかに位置づけてみせるガイドの語りが、その後も私の中に潜在していたせいかもしれません。「漢江」のメロディを耳にした瞬間、とてつもないスケール感に包まれたことを、今でもありありと思い出します。そして少しずつ内容が聞き取れるようになると、そこに込められた壮大で深遠な歴史観にまたしても圧倒されました。

「漢江」は趙容弼の作品の中で、今でもいちばん好きな楽曲です。「歴史(ヨクサ)」や「民族(ミンジョク)」といった韓国語の観念世界を、私はこの曲によって初めて感受したように思います。

※歌詞
一曲りして流れる悲しみ、二曲りして溢れる愛

1.美しい陽を浴びて水影をたたえ、夜には月光を浴びて悲しみを消した
億年の息吹に絡みつく歳月、億年の波はこの胸に打ち寄せる音、漢江は流れる

2.愛しい君(ニム)が行かれる道へと漕いで送り、恋しい思いよ、空っぽの船で揺れている
億年の息吹に絡みつく歳月、億年の波はこの胸に打ち寄せる愛、漢江は流れる
億年の波はこの胸に打ち寄せる愛、漢江は流れる

 

한굽이 돌아 흐르는 설움 두굽이 돌아 넘치는 사랑 워우워~

1.한아름 햇살받아 물그림 그려놓고 밤이면 달빛받아 설움을 지웠다오 
억년의 숨소리로 휘감기는 세월 억년의 물결은 여민가슴에 출렁이는 소리 한강은 흘러간다

2.고운님 가시는길 노저어 보내놓고 그리운 마음이야 빈배로 흔들리네 
억년의 숨소리로 휘감기는 세월 억년의 물결은 여민가슴에 출렁이는 사랑 한강은 흘러간다 
억년의 물결은 여민가슴에 출렁이는 사랑 한강은 흘러간다

 

https://www.youtube.com/watch?v=o74x2ZcWkIA&feature=share

 

漢江は以北(現・朝鮮民主主義人民共和国)の江原道通川郡を源とする北漢江に、江原道南部に発する南漢江が合流し、ソウルを貫通した後、さらに臨津江(イムジンガン)と合流して黄海へと注いでいます。前掲の歌詞にみるように、「漢江」は、まさに「分断」という俗世の出来事を凌駕した民族の歴史、無数の命をはぐくみ死を包み込んできた悠久の大河を歌っています。

この曲が発表されたのは「チングよ」と同年、1983年のことです。光州事件の惨劇からわずか3年、全斗煥政権による公安統治が強化され、運動勢力は地下に潜って雌伏の時期を過ごしていました。権力の追っ手を逃れた運動勢力は地下化、先鋭化が進み、80年代半ばに入り、やがて表出される反米民族主義の運動理念をひそかに鍛えつつあった頃です。もちろん歌の作り手にも歌い手にもそんな政治的意図はなかったにちがいありません。しかし、この歌を聴いた人々はどう受けとめただろうか、と思うのです。それほど「漢江」の歌詞には、隠喩的なイメージがまとわれているということです。

 

美しい陽を浴びて水影をたたえ、夜には月光を浴びて悲しみを消した
億年の息吹に絡みつく歳月、億年の波はこの胸に打ち寄せる音、漢江は流れる

 

 この詩に表れた漢江の悠久のイメージは、あのガイドが語った「わが民族の苦難の歴史を抱き、見つめつづけてきた」という言葉にも共振するのです。このわずかなフレーズから、漢江のたゆたう水面に朝鮮戦争がもたらした民族分断の悲劇と、その後の分断暴力が招いた(光州事件をはじめとする)理不尽な犠牲の数々を想起することは、十分に可能であったと思います。


愛しい君(ニム)が行かれる道へと漕いで送り、恋しい思いよ、空っぽの船で揺れている

 

「ニム」とは「君、あなた」などを指す二人称ですが、韓龍雲の詩「ニムの沈黙」や、光州事件の弔い歌「ニムのための行進曲」と同様、祖国をニムと見立てて、擬人化された「思慕する対象」への呼びかけとして読み解くこともできるでしょう。

愛しい君(ニム)とは誰だろうか、船を漕いでどこへ送ろうとするのか?

それは文字どおり、船に乗って去りゆく愛しい人との別離かもしれない。

あるいは「空っぽの船」とは、死霊祭を行なうシャーマンが死者の魂を乗せて極楽浄土へと送る、あの「船流し」の藁船のことかもしれない。だとすれば、愛しい君とは、この世から離別した死者をさすことになる。

また、ニムを擬人化された「祖国」と見立てるならば、それはそれで、1983年という暗雲たれこめる冬の時代の表象ともなりうるだろう。

ノンフィクション・ライターの野村進一は『コリアン世界の旅』で、歌に込められた在日コリアンの「シークレット・コード」ということを述べています。この伝でいえば、「漢江」の作品世界にも、そんなシークレット・コードが埋め込まれているのではないか…、そんな気がするのです。

 そういえば、これも奇妙な偶然ですが、民衆歌謡の歌い手たちがひそかに「노래 찾는 사람들」(歌を求める人々)というグループを結成したのも、1983年のことでした。

 歌を求める人々―――。

 なんとシンボリックな名づけでしょうか。

 言葉の紡ぎ手である詩人の和合亮一さんは「ある言葉が消えてしまった」と言い、消えた言葉を探し求めて、「言葉から言葉を掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか」と呼びかけました。

 しかし餓え渇く心で歌を、言葉を求めるのは、作り手や歌い手だけではありません。聴き手もまた耳元を流れる歌に向かい、「言葉から言葉を掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか」と問いかけながら、歌の言葉のなかに隠された言葉を探し求めようとしたのです。

作り手・歌い手と聴き手とがそれぞれに歌を求めあう相互作用のなかで、言葉のなかに埋められた言葉が掘り起こされ、意味が紡がれて、歌は歌になっていったのではないだろうか。「チングよ」も「漢江」もそんな歌だったと思えるのです。

時代の先取り

時代が私たちに追いついた?!

 前回の更新からずいぶんと時間が経ってしまいました。

 ブログを立ち上げたのは、ちょうど韓国映画「タクシー運転手」が日本で公開され、大ヒットを記録しているさなかでした。本題の「タクシー運転手」に取り掛かる前に、まず10年前に公開された「光州5・18」に触れた後、演劇「クミの五月」にまつわる劇作家の故・朴暁善の肉声を紹介しながら、徐々に徐々に「タクシー運転手」および「1987」を扱う記事へと着地させる計画でした。

ところがその後、思いがけなくネットメディアで拙文を発表する機会を得(『現代ビジネス』)、

gendai.ismedia.jp

そればかりか「1987」公開に前後して、公共の電波で韓国民主化闘争について話をする機会まで与えられ(TBS‐CSテレビ「ニュースバード」9月7、8日)、

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TBSラジオ「荻上チキ session₋22」)、

www.tbsradio.jp

その対応で右往左往しているうちに、すっかりブログの方がお留守になってしまいました。

「1987」については、「タクシー運転手」同様、いずれ何らかのかたちで文章にまとめられればと思っています。

今回は、「タクシー運転手」を観ながら今さらのように実感させられた、文系研究者の役割期待ということについて書きます。

 

「タクシー運転手」のヒットに促されて

 一か月ほど前に、偶然ネットで見つけた短い記事を翻訳します。

 

「1980年当時の外信記者のアジア圏の拠点・日本で5・18記録物を調査

―5・18記録館、25日まで・・・東京中心に資料収集、各国言論社支局等を訪ねて」

(国民日報、2018.6.20)

光州5.18民主運動記録館(以下、5・18記録館)は20日、1980年から38年ぶりに、日本現地で5・18関連記録物の調査作業に取り掛かると発表した。日本の首都・東京は1980年当時、世界主要国の外信記者たちのアジア圏の拠点だった。

5・18記録館は、学芸研究士と通訳官からなる調査団が前日、日本に向けて出国したと説明した。調査団は25日まで東京を中心に現地に滞在しながら5・18記録物を総括収集する活動を行なう。

調査団は、当時、光州の真相を世界に報じた世界有数の各言論社の東京支局を訪問し、関連資料を確保したい計画だ。『光州抗争で読む現代韓国』(*『光州事件で読む現代韓国』の韓国語訳版、2001年刊行)の著者・真鍋祐子など、日本人の5・18研究者らとの面談も予定されている。

また当時、日本で光州抗争に関する情報を伝える多様な刊行物を出していた非政府機構(NGO)や国際機構、市民団体などの所蔵記録物などを直接確認し、収集する作業も並行して行なう。日本での5.18関連記録物調査作業が順調に進めば、政府次元の5・18民主化運動真相究明にとっても助けとなるだろう。

5・18記録館側は、当時光州の真相を映像に収めて地球村に初めて伝播させた「青い目の目撃者」ドイツ人記者のウェルゲン・ヒンツペーターなど主だった外信記者たちが主に東京で活動していた点を勘案し、未公開資料などが多数残っていることを期待している。5・18記録館の関係者は「日本でその間、公開されなかった5・18関連資料が発掘できるよう期待する」とし、「東京だけでなく日本の主要都市の関連資料も収集する予定」だと述べた。

 こうした動きは明らかに「タクシー運転手」効果によるものと思われます。ちなみに、記事には面談予定の「5・18研究者」として私の名前が出てきますが、今のところ「5・18記録館」からは何のアプローチもありません(笑)。まあ、連絡をもらったところで、当事者ではない私に提供できる情報量などタカが知れています。早くから韓国の民主化に関心を寄せ、連帯運動に関わってこられた、情報提供者としてふさわしい方々が、私の周囲にも少なからずいらっしゃいます。

 いずれにせよ、「タクシー運転手」のヒットに促されて、この「5・18記録館」と同様の問題意識を伴った取材や研究が、今後も現れてくるのではないかと思うわけです。

 

「光州研究会」のこと

 私が上記の記事をとても感慨深く読んだのは、2009年5月に結成した「光州研究会」のことを重ねたからです。この研究会は林香里さん(東京大学大学院情報学環・教授)の、光州抗争をジャーナリズム研究としてtransnational advocacy networkの視点で捉えるのはどう?という提案によって始まりました。まだ李明博政権が始まったばかりでしたが、光州抗争の核心に迫ろうとする試みは時期尚早と、林さんも私も理解していました。光州での真相は、情報統制が敷かれた韓国内で長らく秘匿されてきました。むしろ情報の集積地となったのが東京であり、よって岩波書店『世界』を中心とした情報の流れを見てゆくことで、韓国民主化の過程を浮き彫りにできるのではないかと考えたのです。これは林さんの全くオリジナルなアイデアでした。

韓国併合100年と光州抗争30周年を迎える2010年の年頭、福岡県を拠点とする西日本新聞社より取材を受けました。この記事に「光州研究会」結成のいきさつが詳しく記してあります。

 

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 「光州研究会」は林、真鍋、そして2人の女子院生の計4人でスタートしました。そのうち林さんの仕事が忙しくなると、研究会で扱うテーマはそのまま、2人の院生のうちのひとり、李美淑さんのものへとスライドしていきました。

 記事にある「知識人や宗教者の地下交流」が李さんの博士論文のテーマになりました。本当は「在日コリアン社会への影響」についても扱う計画でしたが、2010年に哨戒艦沈事件(3月)と延坪島砲撃事件(11月)が発生し、南北関係が急激に悪化すると、韓国籍の李さんが、かつて民主化闘争にコミットした在日朝鮮人や、ことに朝鮮総連系の在日コリアン社会にアプローチすることは危うくなったのです。

 2015年に博士学位を授与された李さんの論文は、今年に入ってから

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「日韓連帯運動」の時代―1970~80年代のトランスナショナルな公共圏とメディア』として東京大学出版会から刊行されました。

 

 私はこの本を、ぜひとも「タクシー運転手」や「1987」の鑑賞のお供に、と勧めています。扱われるテーマは確かに「知識人や宗教者の地下交流」に的を絞った「光州事件と日本」の関係についてです。しかし『世界』に連載されたT.K生「韓国からの通信」を作り上げてきたのは、韓国民主化に対して意識ある日本人だけとは限りません。李さんは、情報の媒介者として役割を担ったドイツ人の宣教師やジャーナリスト(すでに「タクシー運転手」をご覧になった方には既知の事実ですが)にもインタビューを敢行し、また韓国のキリスト教関係者たちにも亡くなる直前に、間一髪で話を聞くことができました。今となっては貴重な、命がけで韓国民主化闘争に参与した人たちの肉声によって編まれた作品なのです。

 

研究者の役割期待 

 韓国で「タクシー運転手」がクランクインしたというニュースを目にしたとき、最初に思ったことは、おこがましいかもしれませんが、

 

「時代が私たちに追いついた!」

 

 これです。

この一言に尽きるものでした。李さんの本の出版を「タクシー運転手」日本公開が追いかけるかたちになったことも、私としては感無量でした。

 その始まりはささやかな「光州研究会」であり、そこで発せられた林さんの一言でした。

 

「光州抗争をジャーナリズム研究としてtransnational advocacy networkの視点で捉えるのはどう?」

 

 それは今になってみれば、まさに「タクシー運転手」のコンセプトを先取りする問いかけでした。

 1993年、『社会学評論』特集号の対談で、高坂健次と厚東洋輔は、社会学者の役割期待について次のように指摘しています。

 

「80年代の終わりから東欧社会で矢継ぎ早に起こった一連の社会変革と民族紛争は、すでにマクロ社会学の観点から現代を語るときの枕言葉のようになった。社会学者は、狭い意味での専門が何であれ、こうした社会変革の意味について読み解き、将来を予見する役割期待ないしは職業的債務を負っている。」

 

 今から10年近くも前に、光州抗争とメディアとの関係性に目を留めた林さんの社会学者としての慧眼に、ようやく時代が追い付いたのだと思います。

 そのあたりのことは、李さんの力作とともに、もっと知られてもよいと思うのです。

 昨今、人文系学問が役に立つとか立たないとか、生産性があるとかないとか、愚かしい議論が喧しくなされるなかで、これは真に優れた人文系学問の面目躍如ではないでしょうか。

 研究者なめんなよ!

亡き劇作家が「クミの五月」に込めたもの(4)〜5・18は終わらない〜

「犠牲者たちの死を無駄に盗んだ」

 多くの人たちはあらかた忘れてしまっているかもしれませんが、先月12日に放映された「アナザーストーリーズ」光州事件の回について、私にはまだまだ言い足りないことがあります。なので、前々回から前回、そして今回にまで引き継いで小文を綴っておこうと思います(我ながら、しつこいようだが)。

 ここで取り上げるポイントは、1980年の光州抗争から、いきなり87年の6月抗争へと飛躍する牽強付会の展開について。歴史を粗忽に扱うこと、まだ健在の当事者たちの感情や立場を微塵も深慮していないことなど、雑で乱暴な作りと感じました。特に制作者がNHKであることに、もう少し丁寧な作りをしてほしかったという不快感を覚えたのです。

 6月抗争のきっかけを作った延世大生・李韓烈の死が、どういう出来事の積み重ねの上に起こったことなのか、という80年から87年にかけての韓国現代史がきれいさっぱり省略されています。見る人が見れば、きっとはらわたが煮えくり返るにちがいない。一体全体、わが子の死は無駄だったというのか!と、もし日本語がわかる親の誰かがこの放送を目にしたら地団太を踏むような、デリカシーのない作りであったといわざるをえない。

 86年8月に、民主化運動で犠牲になった学生や労働者などの父母を中心とした遺族会が結成されました。遺族たちは、民主化や統一を求める運動に参加して亡くなった、わが子に貼られた「アカ」の汚名をすすぎ、その名誉が復権されることをめざして、自らデモの先頭に立ちながら死んだ子どもたちに代わり民主化運動を闘ってきた人たちです。私は25年前からこの遺族会に出入りして、韓国民主化運動の歴史的展開を死生観の視点から見つめてきました。番組に登場した李韓烈のオモニ・裵恩心さんも25年前からよく知っています。私の本の中には、彼女がふと漏らしたつぶやきや、雑談中にポロリと発した言葉がいくつか出てきます。その一つに、実に胸をえぐられる言葉があります。

 光州抗争の犠牲者や、ある特定の死者たちだけが民主化の実を享受して、名誉復権され、称揚されるということは、その背後で歳月をかけて累積してきたはるか多数の犠牲者たちの死を「無駄に盗んだ」ことであり、「泥棒みたいなもの」だという指摘です。

 皮肉なことに、「アナザーストーリーズ」での李韓烈の描かれ方は、光州抗争から6月抗争へと至る7年間に累々と屍を積み上げてきた「犠牲者たちの死を無駄に盗んだ」ことにほかならなったと思います。あのような切り取り方では、李韓烈の母親自身がまるで「泥棒みたいなもの」ではありませんか。

 遺族会の親たちは、わが子の死が世間でどう受け止められているかに、とても敏感です。誰しも愛するわが子の死が世のために少しでも役に立ったと信じたい、そう信じることで喪失感からくる悲嘆の感情と折り合いをつけようとするからです。だが実際のところ、その死にざまが世間の注目を集めたり、歴史の分水嶺と意味づけられたりした者たちは大きく取り上げられる一方、そうはならない死者たちもいる。親たちにしてみれば、わが子の存在はそれぞれにかけがえのないものです。すると、取り上げられ方の軽重によって、これまで苦楽をともにし、一致団結して闘ってきた親たちの間に、微妙なすきま風が吹くようになります。やがて心理的距離感から疎遠になったり、ちょっとした意見の食い違いで分裂したりといった事態が生じる。こうして親たちの高齢化もあいまって、遺族会は弱体化を余儀なくされるのです。

 私は李韓烈のオモニだけを取り上げて、それ以前に払われた数多くの犠牲について一言も触れなかったあの番組の構成に、心から不快感を覚えます。李韓烈へと至るまでに犠牲を払った無数の死者の親たちを傷つけ、同時に「犠牲者たちの死を無駄に盗んだ」「泥棒みたいなもの」という自ら発した言葉が返す刀となり、李韓烈のオモニを傷つけるのです。焼身、割腹、拷問、殴打などの目を覆うような無惨な姿でわが子を見送らざるをえなかった経験は、親たち一人一人に深い「心の傷」を刻印します。特定の死者ばかりを差別化して取り上げることは、終生癒えない「心の傷」を抱えて生きながら老いてゆく親たちに、さらなる分裂と弱体化の芽をもたらす仕打ちです。

 たとえ故意ではなかったとしても、「無知」は罪でしかありません。番組制作者は、なぜ、この親たちの心の機微をもっと謙虚に、丹念に深堀りしようとしなかったのでしょうか。

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遺族会で、民主化運動犠牲者たちの遺影を背に。筆者の右側が李韓烈の母・裵恩心さん。

 

文益煥牧師の弔辞(1987年)―死者たちの名前を呼ぶ

 1987年7月5日に息を引き取った李韓烈の葬儀は9日に、「民主国民葬」として執り行われました。

 以下は、延世大で行われた永訣式で文益煥牧師が詠んだ弔辞の冒頭、李韓烈に至るまでの民主化運動犠牲者たちの名が読み上げられた部分です。

 

「(犠牲者は)全部で40名余りになりますが、私にはすぐに25人の名前しか出てこなかったので、その25人の名前を書き留めて参りました。もし漏れている名前があったら、私が全部呼び終えてから、ここにいる誰かが立ち上がってその名前を呼んでください。」

こう言い置いてから、文牧師は書き留めてきた25人の「烈士」の名を一人ずつ、腹から絞り出すような大きな声で、長く長く尾を引きながら読み上げていきます。(*括弧は死亡年)

全泰壹烈士よーーー!(1970)

金相真烈士よーーー!(1975)

張俊河烈士よーーー!(1975)

金泰勲烈士よーーー!(1981)

ファン・ジョンハ烈士よーーー!(1983)

金宜基烈士よーーー!(1980)

金世鎮烈士よーーー!(1986)

李載虎烈士よーーー!(1986)

李東洙烈士よーーー!(1986)

金景淑烈士よーーー!(1979)

チン・ソンイル烈士よーーー!(1986)

カン・サンチョル烈士よーーー!(1986)

宋光栄烈士よーーー!(1985)

朴永鎮烈士よーーー!(1986)

光州2000余 英霊よーーー!(1980)

パク・ヨンマン烈士よーーー!(?)

金鍾泰烈士よーーー!(1980)

朴恵貞烈士よーーー!(1986)

ピョ・ジョンドゥ烈士よーーー!(1987)

皇甫ヨングク烈士よーーー!(1987)

朴鍾萬烈士よーーー!(1984

洪起日烈士よーーー!(1985)

朴鍾哲烈士よーーー!(1987)

オ・ドングン烈士よーーー!(?)

キム・ヨングォン烈士よーーー!(1987)

李韓烈烈士よーーーー!

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%B3%B0%E5%A3%B1 

 死亡年も、学生運動か労働運動かの別も順不同ですが、とにかく李韓烈の名が読み上げられる前には、実にこれだけの犠牲者(それでも40数人中の25人にすぎない)が存在したのだという前史が明示されます。また、このリストには、李韓烈の、光州市民の、25人の犠牲者の死を意味づける、1970年11月13日の労働者・全泰壹の「政治的他殺」を原点とした歴史意識が投影されています。

 このことを最もよく表わしているのが、「疑問死」(元運動圏学生の兵役中の不審死など)の真相究明と犠牲者の名誉回復を求めるキャンペーンのため、90年代半ばに遺族会が作成したポストカード(*写真)の図案です。朝鮮半島全体が70年以降の民主化運動における犠牲者たちの顔で埋め尽くされています。軍事独裁政権が国を支配し、民主主義が抑圧されてきたのは、分断がもたらした社会の歪みのゆえであり、民主化運動における犠牲死はそうした矛盾の象徴である、とする考え方です。そして分断の歪みの最たる出来事が光州抗争と位置づけられているのです。

(*光州抗争を起点として、どうしてそのような考え方、歴史意識が生まれるに至ったかは「荻上チキのsession-22」

www.tbsradio.jp

という番組でなるたけ詳しく解説しているので、ぜひそちらをお聴きください。)

 1980年の光州抗争が韓国民主化運動の原点であり、87年の6月抗争はそこからもたらされた結実である、ということは、「アナザーストーリーズ」でもちゃんと描かれています。しかし、もう一つ重要なことが捨象されています。それは光州での惨劇が、光州の人びとをして、その後の民主化運動勢力をして、分断状況に起因すること、もっと生々しくいうと、全斗煥の新軍部が米国を後ろ盾にすることで(米国との共同正犯により)故意にもたらされたことに、気づかせるきっかけになったという点です。

 ここに新たな歴史意識が生まれます。新たな眼鏡で改めて5・18より遡って過去を振り返った時、民主主義の抑圧として表出する分断状況の矛盾が再発見され、これに抗った初めての犠牲者として、ソウル平和市場で勤労基準法の遵守を訴えて焼身自殺を遂げた裁縫工・全泰壹の死の意味が浮き彫りになるのです。

 文益煥牧師がなぜ70年代からの犠牲者たちの名を呼んだのか、これで理解できるのではないでしょうか。

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 さらに重要な点は、「名前を呼ぶ」という行為です。いまだ反共法が生きている分断国家の韓国で、これまで強権的な独裁体制の下では民主化運動勢力は「アカ」や「従北」などのレッテルを貼られ、排除されてきました。加えて伝統的な儒教規範では、天寿を全うできずに死んだ者、親より先に死んだ者、普通でない死に方をした者、まして親からもらった体を著しく毀損して死んだ者などは、一族の系譜からその名を抹消され、葬祭の対象となる祖上神から排除され、寄る辺のない無主孤魂として中空をさまようとされてきました。文牧師が一人一人の民主化運動犠牲者たちの「名前を呼ぶ」のは、民俗学的にいえば死者の魂をこの世に呼び戻す「魂呼ばい」の所作であり、同時に簒奪された非業の死者たちの名を民族史の中に取り戻す、という政治的意味が込められているのです。

 そこでは李韓烈ひとりが英雄ではない、むしろ彼の死は韓国民主化運動史の中に相対化されるものであり、祖国統一をもって完結されるべき民族史にとっては一里塚でしかありません。

 

メディアの責任―権力の(イノセントな?)共犯者でいいのだろうか?

 私は「アナザーストーリーズ」に対して過度な期待はしませんが、文牧師が名前を呼んだ犠牲者たちのうち、せめて朴鍾哲だけは取り上げるべきだったと思います。朴鍾哲の犠牲がなければ、李韓烈の犠牲も直接には起こりえなかったからです。

 ソウル大の2年生だった朴鍾哲は87年1月、指名手配中の先輩の居場所を尋問する目的で警察に連行され、水責め拷問で亡くなりました。本人は学生運動に共感を抱きながらも、運動に参加しないでほしいという両親の懇願を聞き入れて、距離をおいていました。そんな青年が、政治的暴力によって理不尽に命を絶たれた。朴鍾哲拷問事件はこれまで民主化運動とは距離をとり、様子見をしていた一般市民も巻き込んだ汎国民的な独裁政権打倒運動へと波紋を広げたのです。李韓烈の事件はそうした流れの中で、まさに拷問に対する抗議運動のさなかで起こりました。そこを見逃してはなりません。

 朴鍾哲の死を捨象して李韓烈ばかりを取り上げるのは、まさに李韓烈のオモニが言ったように、朴鍾哲の死を無駄に盗むことにほかならないからです。番組であのように描かれることが、オモニの気持ちに沿っていたとは、私には到底思えないのです。

 私は朴鍾哲の両親にもインタビューをし、特に父親の朴正基さんは遺族会で最も頻繁に対話をしてきた一人です。ある時、アボジがこんな言葉をつぶやきました。

 

「死に大きい、小さいは、ないけれど・・・」

 

 87年の民主化宣言を語る時、決まって朴鍾哲と李韓烈の名前ばかりが取り上げられる。しかし、それは文牧師がその名を呼んだ数多くの犠牲者たちの死を無駄に盗むことになりはしないか。そんな忸怩たる思いが、アボジのつぶやきには込められていました。

 「アナザーストーリーズ」が捨象したことのうち、これが何よりも重要な三つ目の視点です。しかも、この朴鍾哲の事件すら省略されてしまった点が私は悔しくてなりません。

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*写真は朴鍾哲。インタビューの後、お礼にと、父の朴正基さんからいただいたもの。

  さる3月のシアタートラムでのシンポジウムで初めて公開した劇作家・朴暁善の20年前の肉声が、「5・18にも問題が多い、遺族会、負傷者会…、我々はそういうものとも闘い続けなくてはならない」と語ったことは、権力が常套的に駆使する「切り崩し」という手段によって拍車がかけられます。「死に大きい、小さいが、ある」かのように煽動するメディアの語り、分断される被害者感情、これに乗じて死者を差異化しようとする政治権力は、どれもが未必の故意の共犯者です。ゆえに、すべからく「闘い続けなくてはならない」対象なのです。

先ごろ、パク・ジュミン議員が、当局が光州抗争の被害者関連団体に対する「切り崩し」を示唆した80年代の文書を発見しました(http://japan.hani.co.kr/arti/politics/28803.html)。

 90年代に入ってからも、光州抗争関連者と事件直後に死をもって抗議した者たちだけが顕彰され、「光州」に殉じた80年代以降の犠牲者の多くは疎外された。2000年代に入ると、民主化運動犠牲者のうちの「疑問死」は名誉回復の対象から外され、それによって遺族会は分裂させられた。このように権力は同じことを繰り返してきました。

 ところで、文書の存在を明らかにしたパク・ジュミン議員とは、セウォル号遺族を支えたパク・ジュミン弁護士のことです。2015年の国会議員選挙の時、遺族たちが表立って応援することでパク候補者が心ない誹謗中傷を浴びることがないようにと、着ぐるみ姿で素顔を隠しながら選挙活動を手伝う父親たちの姿を記事で読んだことがあります。これは遺族に対する国民感情の亀裂に付け込んだ当時の政権が、陰で煽ったことでもあります。権力は同じことをたくらみ、繰り返すのだと、その時にも思いました。

 重ねて言いますが、被害者感情国民感情に亀裂を入れることで運動を弱体化させることは、古今東西の権力が繰り返し行使してきた常套手段です。これにメディアも(意図する、しないにかかわりなく)加担してきました。そのことに対する責任はたとえ海外のメディアでも免れるものではないと、私は考えるのです。はたして「アナザーストーリーズ」の制作陣にそこまでの覚悟はあったのでしょうか。

 

文在寅大統領の「魂呼ばい」(2017年)

 文益煥牧師の弔辞から30年後、私はもう一人の文(ムン)が、光州の国立5・18墓地で行われた記念式典で、感動的な「魂呼ばい」をする映像を目の当たりにしました。

 李明博朴槿恵は毎年、記念式典への参加を見送り、光州発祥の運動歌謡「ニムのための行進曲」を墓前で斉唱することも禁じてきました。

 文在寅が大統領に就任して初の5・18、追悼辞の中で「“光州”のために闘った烈士たちを称えたい」として、4人の名が語られました。この様子はYouTubeにアップされており、文大統領の語りは28秒頃からです(https://www.youtube.com/watch?v=h5VFZkIxD_c)。

 

全南大生、朴寛賢(1982)

労働者、ピョ・ジョンドゥ(1987)

ソウル大生、趙城晩(1988)

「光州は生きている」と叫び、崇実大学学生会館の屋上で焼身自殺した25歳、崇実大生、パク・レジョン(1988)

 

 

 一人一人の名をゆっくりと噛みしめるように語っています。もちろん、この4人だけを特別視したい意図ではありません。文牧師が咄嗟に思い出した25人の名を書き留めてきたように、文大統領もそのようにしてこの4人の名を呼ぶことになったのでしょう。「“光州”のために闘った烈士たちを称えたい」とする追悼辞では、最後のパク・レジョンに付された修飾辞こそが、全ての犠牲者たちに共通した称えられるべき功績なのです。猛火に包まれて「光州は生きている」と叫んだパク・レジョンは朴寛賢であり、ピョ・ジョンドゥであり、趙城晩であると同時に、「光州」に殉じた全ての死者たちでもあるわけです。

 この追悼辞が意味するのは、1987年の民主化宣言でこの国の民主化運動は完結したわけではない、という歴史認識です。また、そこにあえて李韓烈の名をあげないことで、「死に大きい、小さいは、ない」ということが暗示されます。私には、文大統領のこの追悼辞が、分断されたものを再び一つに取り戻すための「魂呼ばい」のように響いたのでした。学生も労働者も、ソウルも光州も、民主化宣言の前も後も、「光州は生きている」という歴史意識を軸として、全ての犠牲者たちの死の意味は統合されるということです。

 その後の政権運営、ことに南北和解に向けた努力などを見守りながら、文大統領に対して抱いたこの直観はあながち的外れでもなかったな、と思えるのです。

 

水に落ちた犬を打て

 ただし、さしもの文在寅大統領に関しても、朴暁善が遺した洞察から学ぶべき教訓が一つだけあります。朴氏はこう言いました。

 

「予備検束されたものにも5・18はわからない。」

 

 文在寅がその運動歴のため、5月17日の非常戒厳令で予備検束されたことは有名な事実です。

「5・18を知らない」金大中が赦免した全斗煥は、2017年に自伝を出版し、その内容が物議をかもしています(http://japanese.joins.com/article/716/227716.html)。 

japanese.joins.com

 「中央日報」(2017.5.14)によれば、

  全元大統領は3日に出した『全斗煥回顧録』で自身を「5・18の治癒と慰撫のために犠牲になった」と表現した。 

  また「5・18の衝撃が消える前に大統領になったのが原罪になり、十字架を背負うことになった」とも主張した。自身が5・18直後の大統領になったことで5・18の傷を治癒する犠牲になったということだ。

  

 とのことです。

 この物言いは96年に裁かれた自身の罪状をひっくり返す企てです。そればかりか李順子夫人までもが自伝『あなたは孤独ではない』を出版し、「私たち夫婦も実際、5・18事態の悔しい犠牲者」と自己憐憫してみせたのです。泉下の金大中は、自分がこの男に与えた特赦のせいで、5・18の犠牲者たちが二度殺され、生き残った者たちの傷口がさらに押し広げられるなぞ、想像もつかなかったでしょう。

 今年の5・18関連記事を読むと、全斗煥は「射撃命令はしていない」と、よりあからさまに事件への関与を否定しています。

 この倒錯した状況を今後どのように収束させるか、また朴槿恵前大統領に対する司法の判断をこの先も徹底できるのかどうか、私は文大統領の姿勢を凝視したいと思っています。

 道庁での死闘から生還した元市民軍の朴暁善の目には、金大中も文在寅も「5・18を知らない」という点では五十歩百歩だと思います。私は文大統領を好意的に見ている一人ですが、亡き劇作家が「クミの五月」に込めた貴いメッセージとして、この部分に関してだけは厳しい目で見守りたいと考えています。

 最後に、魯迅の随筆「『フェアプレイ』はまだ早い」より、以下のくだりを引用しておきます(竹内好編訳『魯迅評論集』岩波文庫より)。

 

 話にきくと、勇敢な拳闘士は、すでに地に倒れた的には決して手を加えぬそうである。これはまことに、吾人の模範とすべきことである。ただし、それにはもうひとつ条件がいる、と私は思う。すなわち、敵もまた勇敢な闘士であること、一敗した後は、みずから恥悔いて、再び手向かいしないか、あるいは堂々と復讐に立ち向ってくること。これなら、むろん、どちらでも悪くない。しかるに犬は、この例を当てはめて、対等の敵と見なすことができない。何となれば、犬は、いかに狂い吠えようとも、実際は「道義」などを絶対に解さぬのだから。まして、犬は泳ぎができる。かならず岸へはい上って、油断していると、まずからだをブルブルッと振って、しずくを人のからだといわず顔といわず一面にはねかけ、しっぽを巻いて逃げ去るにちがいないのである。しかも、その後になっても、性情は依然として変らない。愚直な人は、犬が水に落ちたのを見て、洗礼を受けたものと認め、きっと懺悔するだろう、もう出てきて人に噛みつくことはあるまいと思うのは、とんでもないまちがいである。

 要するに、もし人を咬む犬なら、たとい岸にいようとも、あるいは水中にいようとも、すべて打つべき部類だと私は考える。

 

 朴暁善氏の遺言が意味するのは、まさに「水に落ちた犬を打て」ということです。そして「道義」を解さぬ「犬」に喩えられるのは全斗煥だけではない、このことが文在寅大統領に問われているのだと思います。もちろん、私たちの国、この国の政治にとっても無縁であるはずがありません。

亡き劇作家が「クミの五月」に込めたもの(3)〜5・18は終わらない〜

宋基淑『光州の五月』を読んでほしい。けど・・・

 映画「タクシー運転手」をめぐっては、さまざまな媒体で多くの映画評を目にしますが、1980年5月のあの時あの場にいた人びとが、何をその目で見、経験し、その後どんな人生を歩んできたか、またその後景をなす韓国現代史ないし民主化運動史をきちんと踏まえた論評なり感想は、あまり見当たらないようです。日々更新される新たな情報、資料や文献を拠り所にするのは決して悪いことではないのですが、その時代の空気を孕んだ同時代史の視点で書かれた古い文献がほとんど顧みられないことに、正直とてもがっかりしています。それは私がアカデミアの人間だから、ことさらそう感じるのかもしれません。しかし重ねて言いますが、紙であれネットであれ、ひいてはフェイクとされるような媒体であれ、受け手にとって、そこに書かれてあることは「文字という権威」となりうる。この状態を放置するのはそれを認めるに等しいことです。

 わけても歯痒く思われたのは、宋基淑『光州の五月』金富軾『失われた記憶を求めて』など、光州抗争とその後の民主化闘争を内側で体験した人たちの、さほど古くもない日本語訳の本ですら、ほとんど参照されていないことです。

ここでは小説『光州の五月』を取り上げたいと思います。作者の宋基淑は韓国文壇の重鎮にして、全南大教授でもあった人物です。彼は光州抗争を市民収拾委員の立場から経験しました。その後、事件のプロセスと被害状況を綿密に調査し、被害者や目撃者たちを訪ね歩いては口述資料を集め、『光州五月民衆抗争史料全集』(1990年)という膨大な証言集を編纂するのに中心的な役割をはたしました。私は1998年5月に全南大5・18研究所が主催した講演会で「外国人の目からみた5・18」というテーマで話をしたことがありますが、その時の初代所長が宋教授でした。後で知ったところでは、この時すでに『五月の微笑』(原題)を構想されていたそうです。

 物語を織りなすのは「心の傷」とともに生きる光州の人びとです。主人公は、恋人とその姉を戒厳軍兵士に暴行された鄭燦宇。姉はその出来事によって精神を病み、入水自殺する。妹は、姉が遺した私生児の甥と年老いた祖母を養うため、大学進学をあきらめ、恋人・燦宇との別離を決意する。一方、燦宇が勤める会社の関係者にも、人知れず心に傷を負う人物がいます。光州問題をめぐる恋人との口論がもとで破談となり、酒に溺れ、独身を通してきたものの、いまだ事件へのわだかまりを抱き続けながら、酒に酔って溺死した元兵士は、燦宇の会社の元請け会社の理事でした。

燦宇は次のように考えをめぐらします。

 

全斗煥らはまず、軍人の人格を破壊し、そして光州の人々の肉体を破壊したのだ。・・・私たちは攻守団(*)も全斗煥らと同じように憎悪するが、実は彼らも人格を破壊された単純な道具に過ぎなかったのだ。彼らを憎悪するのは光州市民を撃った銃や、市民を捕まえ乗せて走った自動車などの道具を憎悪するのと同じことなのだ。この点をはっきり直視し、認識してこそ光州虐殺者の実態を明らかにすることができる。」

 

 先日の「アナザーストーリーズ」に取り上げられた二人の元兵士は、そうした全斗煥らによる人格破壊を自ら克服し、贖罪意識へと至り、それを新たな生き方に転換させた人たちでした。彼らもまた「人格を破壊された道具」であり、その意味で光州虐殺の「被害者」でもあったことは言を俟ちません。

だが、そこで思考停止してしまって、はたしてよいのだろうか? 朴暁善が「クミの五月」を通して、また彼自身の語りを通して問いかけたのはそのことでした。実は『光州の五月』でも、これと同じ問いが物語を貫くもう一つのテーマになっています。

それは、「クミの五月」では「あの怨恨の殺人魔、吸血鬼全斗煥を、極悪非道の維新残党どもを、処断し」などの台詞として、朴氏の語りでは「小隊長クラス以上の処罰問題」として、何度も繰り返し強調されてきたことと通底するテーマです。

ただ非常に残念なのは、日本語版『光州の五月』には「攻守団」(*)をはじめ、誤訳、誤植が多いとされることです。在日朝鮮人作家の黄英治氏からその一つ一つについてご教示を受けましたが(黄氏からの私信による)、ここには敢えて列挙しません。要は、そうしたハンディをおしてでも、この作品はなんとしてでも、広く読まれてほしいと願っているのです。

 

(註)「攻守団」は同じ「공수단」と発音・表記される「空輸団」(=「空挺部隊」)の誤訳と考えられる。

 

アナザーストーリーズは終わらない

 宋基淑がこの小説を構想したきっかけは、1996年10月、バス運転手の金琦緒が、金九を暗殺した安斗熙を「処断」した事件にあったそうです。金九は米軍政下で、政敵の李承晩アメリカの支援により南だけで単独国家を建設しようとする動きに反対して、南北統一の立場から金日成との協議を模索しようとして、1949年に暗殺された抗日独立運動家です。逮捕された安斗熙は終身刑を受けますが、李承晩大統領により減刑され、一年にも満たずに釈放されました。金琦緒は殺害の動機を次のように語ります。

「あのような人物がいまだに生きているということが恥ずかしかったからです。」

 このニュースを見た宋基淑は、安斗熙を光州抗争の責任者たちの姿に重ね合わせます。

 金琦緒事件の翌年に行われた大統領選挙では、どの候補者も「地域感情の解消」を理由に競って全斗煥盧泰愚の赦免を公約に掲げ、実際、金大中当選者が最初にやったのは二人をクリスマス恩赦で釈放することでした。宋基淑は、「現実は私よりも先に小説を作り上げていたわけだ」として、この小説の執筆にとりかかるのです。

 ここで前々回の記事

gwangju.hatenablog.com

で紹介した朴暁善の、金大中に対する憤りを想起していただきたいのです。

f:id:gwangju:20180630171307p:plain

ホン・ソンダム作、連作「五月」、ホン氏は朴暁善とともに芸術班として活動した元市民軍

「光州市民に対し『全斗煥を赦免しますか、しませんか?』とただの一度も尋ねることなく赦免した。金大中氏は5・18を知らない。彼は5・18を知る人ではない。」

 

 さらに全斗煥の指揮下にあった元軍人たちが退役後、青松監護所に大量に特別採用され、入所者たちを虐待していることに触れながら、次のように語っていることも。

 

「いまだにそういう連中が、人間の野蛮性の具象のごとき連中が、5・18への罪責感をもつどころか、青松監護所の看守として生き延びている。そういった現実との闘いが必要なのだ。」

 

 これは宋基淑と全く同じ問題意識です。

しかし、この5・18を内在的に経験した二人の人物から絞り出された問いかけを、その後の人びとは真摯に受け止めてきたといえるだろうか? 

また、より客観的に物事が見える立場にあるはずの私たち第三者はどうなのか?

「アナザーストーリーズ」での元戒厳軍兵士をめぐる切り取り方と描き方は、「5・18への罪責感をもつどころか、青松監護所として生き延びている」絶対多数の存在を、あたかも「無かったこと」のように扱っています。むろん、ここまで真実に肉薄した証言を記録し、放映したことに対しては素直に、高く評価したいと思います。これこそ、テレビにしかできない仕事です。しかし私が言いたいのは「有ったことを無かったことのように扱う」こと、あるいは公共放送として流す以上、「無知」は罪だ、ということなのです。

宋基淑の小説の主人公は、金琦緒が47年間もかけて安斗熙を「処断」したことに倣い、「行こう。私にも道は一つしかない」と、自身も銃を手にします。しかし物語は、まだ彼が引き金も引かないうちに閉じられてしまう。つまり燦宇が狙いすました銃口は、今もなお、全斗煥ら5・18の責任者たちに突きつけられている、という暗示です。

物語は、5・18は、それにまつわるアナザーストーリーズは、「心の傷」とともに生きる人びとにとって、いまだ終わってはいないのです。

前出の黄英治氏は、『光州の五月』の書評を次のような文章で結んでいます(『民族時報』第1140号)。

 

「現実に、光州大虐殺の命令者である全斗煥盧泰愚元大統領は赦免・復権され、前職大統領として、新大統領の就任式には欠かさずひな壇に座るという、どうしようもない現実がある。そして、真の加害者である米国がある。彼らの赦免を、被害者たちは認めたのか。彼らは加害責任をとったのか。とっていないなら、どうとらせるのか。

 小説はいったん幕を閉じる。残されるのは、私たち読者である。」

 

「加害者も被害者」なのか?

 朴暁善は、「加害者もある意味では被害者ではないか」とは、知識人の欺瞞だと喝破しました。民主化運動勢力の中でそうした言説が生じる端緒の一例として、80年代半ばの学生運動家たちが経験した拘置所暮らしについて触れておきます(*)。

それまで大学生という同齢で均質的な集団の中にいた彼らは、拘置所で一般囚と同房になることで初めて「他者」を知り、「理論的に学んだ韓国社会の矛盾を監獄に入ってきた人の個別の話を通してより具体的に確認することになる」。そこに「堕落した民衆」の実相を発見した彼らは、理念を超え、真に「民衆を愛する」ことの意味を突きつけられる。しかし拘置所暮らしを経るにつれ、「支配イデオロギーによって堕落・歪曲された」存在として、すなわち犯罪者=加害者でありながら同時に韓国社会の被害者として、そうした人びとの実存を受け止めるようになるといいます。

彼らはまた、時に威圧的で暴力的な「矯導官」(看守)たちにも出会うことになります。再び「民衆を愛する」ことの意味を求めながら、戒厳軍兵士と同様、権力に連なって暴力を行使する拘置所の末端官吏たちに対してさえも、次のように結論するのです。

 

「我々は、この矛盾構造の中でその人が担っている役割を憎むのです。」

 

 これは前出の戒厳軍兵士に寄せた燦宇の独白、「彼らを憎悪するのは光州市民を撃った銃や、市民を捕まえ乗せて走った自動車などの道具を憎悪するのと同じことなのだ」と、同じことを言っています。しかし、学生運動家たちの思索はそこで終わりです。朴暁善の言葉を借りれば、「5・18を経験しなかった人には5・18はわからない」からです。5・18を真にわからない者たちは、5・18を自分たちが見たい見方でまなざします。また5・18を経験しなかった者たちは、戒厳軍の暴虐を体で知っている者たちではなく、軍服の中の個々の兵士たちを自分たちが見たい見方でまなざそうとするのです。

 前述の拘置所暮らしのエピソードは86~7年頃に書かれた当事者の手記によるものです。朴暁善が劇団員たちの話から、「クミの五月」を観劇したあの金大中でさえ、実は「5・18のことなど全然わかっちゃいなかったんだ」と思い知るのは、その2~3年後のこと。きっと彼には「加害者も(社会の矛盾構造による)被害者」とする、5・18を経験しなかった知識人たちの、頭でっかちの欺瞞が痛いほど突き刺さったにちがいない。あの時あの場で起きた出来事の中心にいた者たちの耳に、時間的にも空間的にも隔たったところから発せられる「加害者も被害者」という言葉は、どんなふうに響いたか。戯曲「クミの五月」は88年、そんなさなかに完成されたのでした。

 劇中、主人公のジョンヨンは武器返納を迫る収拾委員たちとの激論の果て、「これ以上の混乱に対しては、きみらがすべて責任を負うんだ」と切り捨てた委員長に向かい、次のように叫びます。

 

「責任など怖くはない。怖いのは歴史の審判です!」

 

 これはあの時あの場にいて迫りくる権力の暴虐に立ち向かい、孤軍奮闘した人間たちにしか発しえない叫び。この言葉が全てを物語っているのではないでしょうか。

 だが、時間と空間を隔てて、これを取り囲む者たちには、あの金大中にさえ、響かない。中心から最も遠いところにいる私たちには、なおのこと響かない。それどころか、良心的であろうとすればするほど欺瞞に陥ってしまう。なぜならこの町(光州)の、この国(韓国)の、歴史の審判とはどこまでも無縁の存在だから。

それでもなお朴暁善が追い求め続けた人間存在の普遍性、終わらない「野蛮性」への問いを投げかけ続けていく義務が、私たちには残されている。私たち一人一人は、人類の歴史の審判から誰もが自由ではないからです。

「アナザーストーリーズ」を見ながら、二つ目に、そんなことを思いました。

 

(註)チョン・インチョル(仁科健一訳)「韓国学生運動の抵抗のエッセンス」和田春樹・梶村秀樹編『韓国民衆-「新しい社会」へ』勁草書房、1987年

亡き劇作家が「クミの五月」に込めたもの(2)〜5・18は終わらない〜

「アナザーストーリーズ」について

 6月12日、BS-NHK

www.nhk.or.jp

光州事件特集が放映されました(18日再放送)。遡ること10年前、映画「光州5・18」の日本公開に先立ち、光州事件を扱ったドキュメンタリー番組を作りたいと民放局から協力依頼を受けましたが、どこかから圧力があったとかで立ち消えになってしまいました。2010年6月、光州抗争30周年を期してBS-NHK

www2.nhk.or.jp

を放映した際には、制作に協力しましたが、じっくりと時間をかけながら徹底的に水面下で、局内でも秘密裏に事が運ばれたと聞いています。プロデューサーの話では、関係者たちがまだ健在で、生半可に光州での経験を「歴史化」できる段階にはなかったことと、それぞれに思惑を帯びた人びとが多方面から足を引っ張りあい、企画を頓挫させる危険性があったからだといいます。その意味では、まるで

klockworx-asia.com

1987arutatakai-movie.com

の日本公開に照準を合わせたかのようなタイミングで、「アナザーストーリーズ」の放映が迅速になされたことは、すでに40年近い歳月と、文在寅の民主化政権を誕生させた「キャンドル革命」をへたことで、5・18にまつわるもろもろの足かせと禁忌が薄まったことを示しているのでしょう。

 何にせよ、情報の風通しがよくなるのは喜ぶべきこと。しかし私にはこの番組を「見たくない」という一抹の思いもありました。視聴中は新たな証言者たちの登場とその突っ込んだ内容に感心し、限られた時間枠の中でよくまとめたなと、どちらかといえば肯定的に眺めていました。ところが番組を見終わって、しばらく間をおくにつれ、じわじわと否定的感想の方が勝ってきたのです。ちょうど前回のブログ記事-インタビューからわずか二か月後に亡くなった「クミの五月」の作者・朴暁善氏の「肉声」を20年ぶりに聴き直しながら考えたこと-を書いている最中でした。ここで朴氏が語った言葉に立ち止まらずして、韓国の「今」は理解できないのではないかとさえ思いながら、改めて「アナザーストーリーズ」のことを思い返すと、なんともいえずモヤモヤするのです。

 一言でいえば、「光州5・18」「タクシー運転手」から、いきなり「1987」なのではなく、また1987年6月29日の「漸進的民主化」と30年後の現在の民主化とは似て非なるものだということ、それでもなお「5・18は終わらない」ということなのです。番組ではそこの部分がきれいさっぱりと削ぎ落とされ、妙にまとまりのよい「感動作」に仕上がっていました。私の心には、ずっとざらざらしたものが残りました。

 これから数回にわたって、「5・18は終わらない」とはどういうことかを、ひとつひとつあげていきながら、(専門家としてのプライドをかけて)この番組に対しての批判的検討を加えていきます。もちろん限られた時間枠での放送ですから、“ないものねだり”だという誹りは甘んじて受けましょう。けれども番組が「語らなかったこと」の数々は、光州抗争の歴史を知らない一般の視聴者にとって、それが「無かったこと」として認識されるのと同然なのではないでしょうか。厳然としてあった/ある事実が、そのまま「無かったこと」として人口に膾炙するなら、それは歴史に対する冒涜だと思うのです。だから私はそこの部分を補うような話を、これから数回にわたって紹介していこうと考えています。

 

「心の傷」と生きる人びと

 今から16年前のこと。光州抗争20周年をすぎて、光州が「人権聖地」としてセルフ・ブランディングを整えつつあった頃、Jという人物と出会いました。光州・全羅道の歴史と文化に根ざす観光資源を探求し、実践に移す活動をしていました。光州市が主導した90年代の観光事業は、光州を「義郷」と呼び、5・18戦跡地巡礼を前景化させるものでしたが、Jさんの著作では5・18関連史蹟が光州・全羅道の観光資源の一つとして相対化され、被差別性や悲劇性、抵抗の伝統など、光州・全羅道を表象する定型句がほとんど使われていませんでした。私はそのことに興味を抱き、すぐさま本のプロフィールに記載された著者の職場にインタビュー依頼の電話を入れました。

 光州のオフィスでひととおり話を聞き、最後に「5・18の時は何をされてましたか?」と訊ねると、Jさんは「中学生でした」と答えてから、問わず語りに次のようなエピソードを聞かせてくれたのです。

 

「当時、私は郊外に住んでいました。ある時、見知らぬ大学生が家にやって来て、“光州が大変なことになっている!軍人が市民を殴打している。このことを多くの人びとに伝えて下さい!”と訴えました。私は“軍人は国民を守るべき存在なのになぜ?”と、この学生の話を疑問に思いました。

 中学を卒業して、光州市内の高校に進みました。

 高校の友達に、姉を5・18で亡くし、全南大でその遺体写真を目にしてからというもの夢遊病者になって、夜ごと望月洞墓地までふらふら行ってしまう、という友人がいました。それを見て、私は初めて、“ああ、これが5・18なのだ・・・”と痛感したのです。

 87年に大学に進み6月抗争を経験したのをきっかけに、労働運動の道に進もうかと本気で進路に悩みました。そんな私に教授が、“それぞれに相応しい社会参与の役割がある”と助言してくれた。それで、観光学の道に進んだのです。」

 

 まさに「人に歴史あり」だ、と驚嘆させられました。Jさん自身は5・18を経験したわけでも目撃したわけでもなく、また縁者に犠牲者が出たわけでもなさそうです。Jさんが従事する観光研究と観光事業には、表向きは5・18の惨劇の影がまとわっていないように見えます。それでも高校時代の友人を通じて、そして朴鍾哲李韓烈という二人の学生の犠牲をきっかけとした87年の6月抗争を経験する中で、彼自身の生き方が問われたこと、それにより「社会参与(アンガージュマン)」としての観光学に携わってきたことは、まぎれもない事実なのです。

 朴暁善氏が「5・18は終わらない」と語る時、Jさんの友人が負ったような「心の傷」を念頭においていたことは指摘するまでもないでしょう。実際、朴氏の五月劇で「クミの五月」と並んで有名なのが、5・18で心病んだ女性を主人公とする「牡丹の花」という作品です。10日間の惨劇の中で、Jさんの友人のような経験をした人びとは、それこそ数えきれないほどいたはずです。

 長らく沖縄で臨床に携わった精神科の蟻塚亮二医師は、沖縄戦経験者の中に長じてから晩発性PTSDに苛まれる人たちが多いことを発見しました(『沖縄戦と心の傷』『戦争とこころ』参照)。そういえば、奇しくも今日は6月23日で、沖縄戦終結からちょうど73年にあたる日です。もう73年、いえ、「心の傷」と生き続ける人たちにとっては、まだ73年にしかならない。73年前の出来事はつい昨日のことのようにフラッシュバックし、73年前の痛みを今の痛みとして生きている。光州抗争から流れた今日までの月日は、そのわずか半分にすぎません。

 沖縄には、73年の月日が流れても癒えることのない「心の傷」と生きる人びとがいる。光州にも同じような「心の傷」と生きる人びとが、その半分にしか満たない歳月を、今日も人知れずひっそりと生き続けているのです。

 これは「アナザーストーリーズ」が伝えなかったことの一つ目です。