翻訳書が出版されました! ―朴來群『韓国人権紀行―私たちには記憶すべきことがある』高文研、2022年9月

2年半ぶりのブログです。

コロナ禍での初めての5・18にアップした記事「言葉のなかに埋められた言葉を④-丁秀羅:二人の「ニム」のはざまで歌う」を最後に、長いこと中断してしまいました。

この記事を書いた頃、韓国で『韓国人権紀行―私たちには記憶すべきことがある』という本が出版されました。

www.hanglesup.com (*原著の取り扱いはこちらから)

著者は「言葉のなかに埋められた言葉を③ ―朝になれば去りゆくあなたへ:金鍾燦の別れ歌―」(2019年4月)で紹介した朴來群さん。私が最も尊敬する韓国の活動家です。この本は帝国日本と軍事独裁政権による人権蹂躙の現場を歩きながら、陰惨な記憶の残滓に耳を澄ませ、犠牲となった人々の声に傾聴する、人権活動家による紀行文として著されました。舞台は済州島(4・3事件)、戦争記念館(朝鮮戦争)、小鹿島(ハンセン病患者隔離施設)、光州(5・18抗争)、南山・南営洞、西大門刑務所歴史館、磨石牡丹公園、セウォル号惨事の現場(珍島、木浦、安山、仁川)という8つのテーマです。

この本が出てすぐの頃から、私は、なんとしてでもこれを自分の手で翻訳したいと思っていました。その理由は、ほかでもない尊敬すべき朴來群さんの本であり、また後述するように、この本が私が韓国民主化運動を研究する中でずっと投げかけてきた問い――韓国政治は歴史上の「非業の死者」にまつわる記憶と哀悼の力学につき動かされてきた――を当事者の側から補完してくれるものだったからです。この本によって、それまで孤独の中で虚空に問いかけ続けてきた私は、まさに百万の味方を得た思いでした。

この2年半の間、自分が何をしてすごしていたか全く思い出せないほど、とにかく目まぐるしいばかりの日々を過ごしていました。通常の大学業務と大小さまざまの書き仕事とともに、一番の成果はやはり本書の日本語訳出版ということになるでしょうか。出版不況が続く中で、こんな重苦しくて陰惨なエピソードばかりの本書の出版を引き受けて下さった高文研には感謝の言葉しかありません。

www.koubunken.co.jp

献本にあたって同封した訳者あいさつの一部を以下に貼り付けます。

今からちょうど四半世紀前に『烈士の誕生―韓国の民衆運動における「恨」の力学』(平河出版社)を、22年前に『光州事件で読む現代韓国』(初版:平凡社)を刊行した際、一人一人の政治的な「死」のいきさつにまつわる「哀悼」の情念が韓国政治を、ひいては韓国現代史を駆動してきたことを初めて世に問いました。そして「ろうそく革命」を経てのち、今に至るまでも私はそのことを問い続け、民主化を推し進めてきた韓国独自の歴史的文脈に敬意を払うよう微力ながら呼びかけてきました。訳者解説にも記したように人権蹂躙の歴史の現場を一つ一つ巡りながら名もなき無念の死者たちの「哭声」を聴いて歩く本書は、「韓国人権紀行」であると同時に、私と同世代の韓国民主化勢力の真っただ中にいた人物による、現在に至るまでの「哀悼の韓国政治」にまつわる証言でもあります。

 実はこのブログを通じて訴えたかったことの一つが、「民主化を推し進めてきた韓国独自の歴史的文脈に敬意を払う」ということでした。訳者あとがきにも、そうした思いを込めました。

近年は日本でもデモによる政治参加が注目を集め、活発に議論されるようになっているが、日本の民主主義と社会運動の歴史と今後を考えるうえで、単に比較対象としての表層的な韓国理解にとどまることなく、この書に込められた韓国政治の深い歴史的意味が敬意をもって広く参照されることを切に願う。

 本書は決して楽しい本ではありません。読んでいて苦しくなる、目を背けたくなる、吐きそうになる・・・そんな残酷なエピソードが、これでもかこれでもかと描写される。8つのテーマそれぞれに質を異にする悲惨さがあります。ある方はしんどすぎて1日1章読むのが精一杯だったと感想を下さいました。でも、これが隣国の人々が舐めてきた歴史的経験のリアリティというものです。そして、その歴史は近代以降、日本の「私たち」とも深くかかわるものなのです。

そのことを虚心に直視し、受け止めること。つまり「敬意をもって」朝鮮・韓国の歴史と向き合い、学ぶこと。日本の「私たち」も、この「紀行文」をともにし、韓国の近現代史をともに旅できることを願っています。

このブログをお読みいただいている皆さん、本書をどうぞよろしくお願いします。情報の拡散と、またすでに本書を読んで下さった方は感想などをどしどしアップしていただけると大変うれしいです!

左・原著/右・日本語版

言葉のなかに埋められた言葉を④-丁秀羅:二人の「ニム」のはざまで歌う

「ニムのための行進曲」(1982年)―光州抗争40周年に

 また新緑の候、風薫る5月が巡ってきました。

 しかし今年の5月は、これまでの5月と変わらないブルー・スカイ・ブルーの空が不気味に沈黙しています。通りを出歩く人影はまばらで、わずかに行き合う人々もみな一様に用心深くマスクで顔を覆っている。先行きの見えない鬱屈した心に加え、サーファーは来るな、パチンコ屋は営業するな、県外ナンバーの車は来るな、と、テレビやラジオが言えば、そうした“自粛要請”に違反した人たちを詮索して、探し出しては吊るし上げスケープゴートにする、いわゆる「コロナ自警団」がどこに潜んでいるかわからないという不安まで。

そうした静寂の奥にひそむ怯懦と邪さと猜疑心の同調圧力で窒息しかかった、その空気に、ふと1984年夏に立ち寄った光州のたたずまいを思い出しました。当時、光州はすでに約80万の人口をかかえる大都市なのに、真昼間の市街地は異様な静けさに包まれていた。こちらには見えないどこかから神経を研ぎ澄ました人々が、じっと息をひそめて周囲の様子を窺っているかのような沈黙の町。なんだかわからないけど、なんとなく陰気な町だ・・・それが光州に抱いた第一印象でした。ちなみに当時、私は1980年5月に起きた光州の惨劇について、全くなんらの知識も関心もない怠惰な学生でした。

 今年は光州民主化抗争40周年を迎える光州に赴き、追悼行事や学術イベントに出席することになっていました。コロナ禍がそうした予定を全て押し流してしまい、こうして人との接触を遮断された中で息をひそめた生活をしながら、これはひょっとしたら光州抗争後の、〈アカ〉や〈容共分子〉のレッテルを怖れる人々が醸していた、あの張り詰めた空気をほんの少しだけ追体験してるんじゃないか?と思い至ったのです。1980年の5月も、いま私が見上げているのと同じ五月晴れの青空だったでしょう。そして1981年、82年、83年の5月もまた、人々は真っ青に晴れ渡った同じ空の下にいたことでしょう。

 光州抗争といえば「ニムのための行進曲」といわれるほどに、この運動歌謡はあまりにも有名です。昨年夏、香港のデモでプロテスト・ソングとして歌われたことで、より広く知られるようになったのではないでしょうか。

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 しかし「ニムのための行進曲」が作られ、演奏と録音がされたのは、ファン・ソギョンという作家がくらしていた光州の一軒家で、窓という窓を幕で覆い、音が漏れないよう隙間という隙間をくまなく目張りした中、極度の緊張感に包まれながらでした。1981年から82年にかけてのことです。この歌は、市民軍のスポークスマンを務め、5月27日未明に道庁で銃殺された尹祥源と、70年代に尹とともに労働夜学の活動をし、78年に練炭中毒で死んだ朴琪順との死後結婚に手向けるために作られました。このあたりの詳しい経緯や歌詞などは、拙著『光州事件で読む現代韓国』に書いたので端折ります。ここで何が言いたいのかというと、そもそもこの歌は、デモで堂々と拳をあげて歌う威勢のよいプロテスト・ソングというよりは、鬱屈した時代の窒息しそうな空気の中で、息をひそめながら、それでも語っておかねばならない出来事の記憶、死者たちの「ことば」を語り伝えるために作られ、楽器の伴奏とともに歌われて、弔い歌としてカセットテープに記録された時代の証言であった、という事実です。

 今般、日本でも政治風刺の歌や映像がYouTubeにアップされ、拡散されては、削除される現象がみられますが、そんなものは比ではない。はるかに過酷な政治弾圧のもと、この歌は1987年6月抗争がもたらした民主化の日まで、常に張り詰めた意識をもって、息をひそめながら非合法に歌い継がれてきたのです。まず、そのことをはらわたから知ってほしい。

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(写真:尹祥源烈士の父・尹錫同さんと)


 さて、本題はここからです。

 「歌のなかに埋められた言葉を」を書き継ぎながら、何度となく言及した「ニム」という言葉について。ニムは「あなた、君」を指す二人称ですが、思慕する対象としての祖国など、擬人的に用いられることもあります。「ニムのための行進曲」が作られ、非合法に歌われていた頃、韓国の巷に流れたふたつの歌を紹介します。

 

丁秀羅「少女兵士 소녀와 병사1984年)

丁秀羅(チョン・スラ、1963年~)の歌を初めて聴いたのは、初めて光州を訪れたあの84年の夏でした。ちょうどロス五輪のさなか、ソウル五輪を4年後に控えた韓国の町は、異様に明るく元気いっぱいだった。巷にさかんに流れていたのは「ああ!大韓民国」という“健全歌謡”でした。1983年、全斗煥政権は、歌手はアルバム制作にあたり無条件“健全歌謡”を収録するよう強制しました。健全歌謡の多くは軍歌調の勇ましいものでしたが、丁秀羅の「ああ!大韓民国」はポップ調で大人気を博します。他の歌手の場合、健全歌謡は添え物的、アルバムの中の日陰者みたいな存在ですが、丁秀羅は逆に健全歌謡のおかげでスターダムへと駆け上がるのです。(「ああ!大韓民国」のYouTubeをリンクするので、オリンピックを控えた当時の雰囲気だけでも味わってみてください。)

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帰国後、大阪で知り合った在日韓国人の青年から、地球レコードが制作したLPレコード「丁秀羅・地球専属1集」の海賊版テープをもらい受けました。丁秀羅の可憐な歌声、特に澄んだ高音域に聞き惚れて、夜も日もなく、擦り切れるほど繰り返し聴いたテープの中に、今日のブログ記事の主人公となる“二人の「ニム」”が歌われていたのです。

一人目は「少女と兵士」に登場する、思慕する対象としてのニム=「祖国」です。

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「少女と兵士」歌詞

나는 애인이 있었죠 우리는 너무도 사랑했는데 전우의 품에 안겨 님은 잠들고 추억은 여기 남아 있어요 뜨거운 님의 숨결은 내 마음에 살아 있어요 님이여 님이여 눈물을 흘리면서 부를 수 없는 그 이름 님이여 님이여 님은 나에게 조국을 사랑하게 했어 끝 없이 강물은 흐르고 철따라 꽃들은 다시 피는데 지금도 불어 오는 바람 속에는 그리운 그 목소리 들려요 뜨거운 니므이 사랑은 내 마음에 메아리쳐요 님이여 님이여 눈물을 흘리면서 부를 수 없는 그 이름 님이여 님이여 님은 나에게 조국을 사랑하게 했어요

 

私には恋人がいたの 

私たちはとても愛し合っていたのに、戦友のふところに抱かれ、あなた(ニム)は眠り

思い出だけがここに残っているわ

熱いあなたの息づかいは、私の心に残っているわ

ニムよ、ニムよ、涙を流しながら、呼ぶことのできないその名前

ニムよ、ニムよ、あなたは私に祖国を愛させたの

はてしなく河は流れ、季節めぐるごとに花々は咲くけれど

今でも吹きくる風の中から、愛しいその声が聞こえてくるの

熱いあなたの愛が私の心に響いてくるの

ニムよ、ニムよ、涙を流しながら、呼ぶことのできないその名前

ニムよ、ニムよ、あなたは私に祖国を愛させたの

 

 

歌詞を読んでみて、どう感じたでしょうか?

少女の戦死した恋人(あなた=ニム)は、戦友とともに祖国のふところに抱かれている。私は大切な恋人であるあなたを失ったけれど、あなたが祖国に殉じたことで、私は祖国を(あなただと思って)愛するようになった、というのです。つまり思慕する恋人は、肉体の死を超えて、擬人化された「祖国」に一体化されたニムとなった。ここでいう「祖国」とはいうまでもなく、分断以降の反共イデオロギーを是とした独裁政権下の「祖国」です。

今からこの歌を振り返ると、ずいぶん右翼的で違和感を抱くでしょうが、わずか40年前にはこちらが主流で、むしろ当たり前の国家観であり、死生観だったといえます。

「ニムのための行進曲」は、そうした同時代の潮流、世の中の主流がどんなものであったかを踏まえたうえで、その深いところの意味を斟酌しなくてはならない歌です。すでにいろんなところで書いたので繰り返しませんが、「ニムのための行進曲」における「ニム」は、「少女と兵士」に歌われた「祖国」とは真っ向から対峙する、もうひとつの「祖国」を志向しているからです。もし私たちがこの歌を歌いたいのなら、歌がみずから背負い込んだその厳しさを、日々、内面化しながら歌い継がなくてはならないと思います。

 

丁秀羅「葉露 풀잎 이슬」(1984年)

 「少女と兵士」が収録された同じアルバムに、「葉露」という歌が収められています。メロディを聞いただけで、とても悲しくなる歌です。そして、ここにも慕わしく愛しい「ニム」が現れています。二人目の「ニム」です。

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「葉露」歌詞

새벽안개 걷히면 님이 오시려나 바람소리 그치면 님이 오시려나 오늘도 떠오른 아침해는 어둠을 씻으며 오르는데 떠나버린 그님은 돌아오지 않고 풀잎마다 이슬은 나를 울려주네 산새들이 잠들면 님이 오시려나 달과 별이 보이면 님이 오시려나 오늘도 고요한 솔밭길엔 그리운 옛날이 남았는데 떠나버린 그님은 돌아오지 않고 풀잎마다 이슬은 나를 울려주네

 夜明けの霧が晴れたら、あなた(ニム)は帰っていらっしゃるかしら

 風の音がやんだら、あなたは帰っていらっしゃるかしら

 今日も朝陽は暗闇をすすぎながら昇ってくるのに

 去ってしまったあなたは戻らず、木々の葉に宿った露が私を泣かせるの

 山鳥たちが眠ったら、あなたは帰っていらっしゃるかしら

 月と星が見えたら、あなたは帰っていらっしゃるかしら

 今日も静かな松林の道に、恋しい昔の日々が残っているのに

 去ってしまったあなたは戻らず、木々の葉に宿った露が私を泣かせるの

  

 これまで何度も書いたように、この歌は愛する人との離別を悲しむシンプルな失恋歌なのかもしれません。しかし一方で、「言葉のなかに埋められた言葉」を探り当てようとする同時代の「歌を求める人々」にとっては、この歌もまた、掘り起こされるべき隠喩に満ちています。同じ年に発売されたシン・ヒョンウォンの「火種」が光州を歌っていたのではないかと囁かれていたように(https://gwangju.hatenablog.com/entry/2019/03/02/154315)、この歌に登場する「ニム」もまた、光州に散った死者たちと、軍靴に踏みにじられ、遠のいてしまった「民主祖国」を暗示していたように思われてならないのです。なぜなら、「葉露」のメロディは、まるでレクイエムのようだからです。

 1982年2月、「ニムのための行進曲」が初めて披露された死後結婚式、光州望月洞墓地にある尹祥源の墓前で、詩人の文炳蘭が詠みあげた祝詩「復活の歌」の結びに次のような言葉があります。

 

  素足に突き刺す茨のなかより、めぐりくる君!

  焼酎にしみた強い香りのなかより、めぐりくる君!

  ぴりりとした唐辛子粉の匂いのなかより、めぐりくる君!

 

 あるいは、光州抗争の口火を切る1980年5月14日の民主大聖会で名演説をし、82年に獄死した全南大の総学生会長・朴寛賢の鎮魂祭でうたわれた次なる詩の一節。

 

  ああ、雨が降れば、雨のなかから

  雪が降れば、雪道のうえから

  秋が来れば、木々の梢のなかから

  ふいとわれわれを訪ね、さまよっている

  君よ、世上天地のまぎれもない君よ

  いまこそ行きたまえ、安らかに眠りたまえ

 

 これらの詩の言葉に触れたとき、真っ先に脳裏によみがえったのが「葉露」のメロディ、そして丁秀羅のまっすぐに研ぎ澄まされた歌声でした。死者は茨のなか、焼酎の香りのなか、唐辛子粉の匂いのなかに、そして雨のなか、雪道のうえ、木々の梢のなかに、つまり生者をとりまく神羅万象に宿っている。もちろん葉露のなかにも。光州の死者を弔うこれらの詩と、この歌とは、そんなアニミズム的な死生観で結ばれています。

 もうひとつ、木々の葉に宿る「露」を歌ったこの歌は、死の匂いを含みながら、夜明け、昇る朝陽で歌い始められます。これは韓国民主化運動で最も愛されてきた「朝露」(1971年に作られ、75年に禁止歌とされた)の世界観とも響きあっているのではないでしょうか。

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 丁秀羅はひとつのアルバムのなかで「ああ!大韓民国」を歌い、性格の全く違った二人の「ニム」を歌いました。私と同い年の彼女は当時21歳。この引き裂かれたイメージの二人の「ニム」を、同時に身に引き受けながら歌うこと。それは当時の韓国社会が背負わされたジレンマそのものだったと思います。

 そして、あの時代の蹉跌を、私たちは決して忘れてはならないと思うのです。長く苦しい民主化の闘いに散っていった死者たちの、花開けなかった貴い生命を「むだに盗む」ことのないように。

韓国の歌シリーズ番外編:「僕が知っているひとつの事」(1992年)

 ご無沙汰しています。2017年度以降、割と大掛かりな共同研究の代表者となり、若手とベテランのあいだで右往左往する中堅の中間管理職としてあたふた過ごすうちに、気がつくと、最後のブログ更新から一年もたってしまっていました。そのうちに世界はコロナ禍で覆いつくされ、オンライン会議だ授業だと馴れないことにあたふたし、今年度予定していたいくつかの行事が中止になったり延期になったりで、またあたふた過ごしているうちに、あれよあれよと緊急事態宣言とか、、、なんだかむやみに心ささくれる日々を送ってしまっておりました。

 そんなさなかに、京都大学人文科学研究所の藤原辰史准教授の緊急寄稿「パンデミックを生きる指針」を読んで、心打たれました。抑制しつつも熱情にほとばしる筆致に、人文系の研究者としてやむにやまれず、心の深奥から湧き上がる言葉を刻みつけずにはおられなかったのだなあ、と感嘆しました。特に最後のこのくだりに、私は彼の心の叫びを聞く思いがしました。そして、その思いに私も声を重ねました。長文ですが引用するので、これだけでもぜひ読んでください。

 

「日本は、各国と同様に、歴史の女神クリオによって試されている。果たして日本はパンデミック後も生き残るに値する国家なのかどうかを。クリオが審判を下す材料は何だろうか。危機の時期に生まれる学術や芸術も指標の一つであり、学術や芸術の飛躍はおそらく各国で見られるだろうが、それは究極的には重要な指標ではない。死者数の少なさも、最終的な判断の材料からは外れる。試されるのは、すでに述べてきたように、いかに、人間価値の値切りと切り捨てに抗うかである。いかに、感情に曇らされて、フラストレーションを「魔女」狩りや「弱いもの」への攻撃で晴らすような野蛮に打ち勝つか、である。

 

武漢で封鎖の日々を日記に綴って公開した作家、方方は、「一つの国が文明国家であるかどうか[の]基準は、高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、それは弱者に接する態度である」(日本語訳は日中福祉プランニングの王青)と喝破した。

 

この危機の時代だからこそ、危機の皺寄せがくる人びとのためにどれほどの対策を練ることができるか、という方方の試金石にはさらなる補足があってもよいだろう。危機の時代は、これまで隠されていた人間の卑しさと日常の危機を顕在化させる。危機以前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた人びとのために、どれほど力を尽くし、パンデミック後も尽くし続ける覚悟があるのか。皆が石を投げる人間に考えもせずに一緒になって石を投げる卑しさを、どこまで抑えることができるのか。これがクリオの判断材料にほかならない。「しっぽ」の切り捨てと責任の押し付けでウイルスを「制圧」したと奢る国家は、パンデミック後の世界では、もはや恥ずかしさのあまり崩れ落ちていくだろう。」

 

www.iwanamishinsho80.com

 

 今の私にはこれだけの文章をものすだけの体力も気力もないのが実情なのですが、それでも自分も何かをせずにはいられない気持ちになりました。ちなみに藤原さんは、あの感動的な声明文「あしたのための声明書」を起草した「自由と平和のための京大有志の会」の「中の人」でもあります。これも以下に貼っておきます。

 

わたしたちは、忘れない。
人びとの声に耳をふさぎ、まともに答弁もせず法案を通した首相の厚顔を。
戦争に行きたくないと叫ぶ若者を「利己的」と罵った議員の無恥を。
強行採決も連休を過ぎれば忘れると言い放った官房長官の傲慢を。

わたしたちは、忘れない。
マスコミを懲らしめる、と恫喝した議員の思い上がりを。
権力に媚び、おもねるだけの報道人と言論人の醜さを。
居眠りに耽る議員たちの弛緩を。

わたしたちは、忘れない。
声を上げた若者たちの美しさを。
街頭に立ったお年寄りたちの威厳を。
内部からの告発に踏み切った人びとの勇気を。

わたしたちは、忘れない。
戦争の体験者が学生のデモに加わっていた姿を。
路上で、職場で、田んぼで、プラカードを掲げた人びとの決意を。
聞き届けられない声を、それでも上げつづけてきた人びとの苦しく切ない歴史を。

きょうは、はじまりの日。
憲法を貶めた法律を葬り去る作業のはじまり。
賛成票を投じたツケを議員たちが苦々しく噛みしめる日々のはじまり。
人の生命を軽んじ、人の尊厳を踏みにじる独裁政治の終わりのはじまり。
自由と平和への願いをさらに深く、さらに広く共有するための、あらゆる試みのはじまり。

わたしたちは、忘れない、あきらめない、屈しない。

 

 

 藤原さんのこれらの「ことば」に心突き動かされる思いでいたときでした。たまたまFacebookの「思い出」ボタンを押したら、2019年の4月6日に自分がこんな文章を書いているのが目にとまりました。これは勿論、藤原さんの「ことばの力」になど及ぶべくもないのですが、韓国研究者として朝鮮人、また在日朝鮮人に相対するときの気構えのようなものとして、走り書きのようにポストした文章でした。以下に、ちょっと加筆したものを貼り付けますね。

 

 

 最近しきりと思い起こす場面がある。

 今から四半世紀も昔、韓国の大学で日本語教師をしていた時、一人の大学院生と朝まで痛飲したことがあった。

 私は学生寮の一角にある独身寮に住んでいて、彼は学生寮の舎監だった。独文科で哲学を専攻していた。

 寮の敷地に隣接した巴山洞という集落の場末の飲み屋で食事をとりながら、二人で焼酎を何本も空けた。ふらふらになるまで飲み続けた私たちは、店を出た後も、寮の中庭のベンチに腰掛け、なおも焼酎をあおりながら話し続けた。それは酔っ払いどうしの呂律の回らない会話だったと思う。

 どんな話をしたのかは全く記憶にない。ただ、はっきりと覚えているのは、彼が発した二つの言葉だ。

「君だって、一人でひっそり泣いてることが、きっとあるんだろう? 本当のことを言えよ。」

 この問いかけに、虚を衝かれたことだけは、とてもよく憶えている。そうよ、泣きたいことなんて山ほどある。泣いたことだって数えきれないほどある。だけど、それを韓国人のあなたに言っちゃって本当にいいの? それにね、本当にツライことは言葉になんかならないんだよ。言い出したらとめどなくなって制御がきかなくなって、だんだん韓国語であれこれ言うことがめんどくさくなって、そのうち伝えることに投げやりになるんだよ? それ、あなたにわかる? 頭のなかでそんな思いがぐるぐると回っていたが、これをわざわざ韓国語に置き換えて語るほどの気力はなかったのだ。結局この問いかけにどう応えたのか、それはまるで記憶がすっ飛んでいる。

 次に思い出せるのは、べろべろに酔いつぶれた彼がつぶやいた一言だった。

「どうしてなんだ。おれ、日本人がずっと大嫌いだったはずなのに…」

 私たちは酔っ払ってベンチにだらりと腰掛けたまま、真夏のけだるい朝を迎えた。

 午前の列車でソウルに行くことになっていた私は、二日酔いのぐるぐる回る頭を抱えたまま、大邱駅からムグンファ号に飛び乗った。ソウルに着く頃にはなんとか酔いもさめ、予定通り学会会場に滑り込んだ。

 まあ、たったそれだけの出来事なんだけど、いま痛みとともに感じているのは、自分には彼が絞り出した「日本人が大嫌いだったはずなのに」というつぶやきのような、湾曲した感情の複雑さをなんとなく斟酌はできても、決して彼と同じように感ずることはできないのだ、ということだ。

 それは韓国人にもアメリカ人にも、どこの国の人に対しても、何の屈託もなく生きてこられた能天気な日本のマジョリティだった…という「罪」だ。同じ人間どうし、分かりあい、思いやりを分かちあえる部分はきっとあるだろう。彼が一人で「他郷暮らし」を送る「老処女」(=オールドミス)の寂しさを思いやってくれたように! それでもおそらく、どう引っくり返ったとしても、私には、あの言葉の真意が心から「わかる」とは言えないし、言ってはならないのだ、と思っている。改めて。

 これはどういう意味かというと、他者が他者であるがゆえの尊厳を認めて、だからそう簡単に分かり合えたとは言えない「孤独」を抱き続けて、それでもなお知りたい、ともにありたいと願い続ける覚悟みたいなもの…だろうか? 藤原さんがあの感動的な提言の最後のくだりを記すときにも、きっと同様の思いがあったのではないかと思う。それが歴史家というものだから。「危機以前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた人びと」の背後にある、その人びとが背負ってきた歴史の地層とそのあわいで生きられた経験を凝視し、認めることにほかならないからだ。

 現在の私は光州や運動圏の友人知人からとてもよくしてもらい、理解もされ、ああやっと…という感慨がある一方で、そこに甘えて胡座をかいていてはいけないとも思っている。特に馬齢を重ねて大学教員の地位に就いてしまうと、行く先々で配慮され、かつてのように自分の足で汗水流して這いずり廻る機会がほとんどなくなってしまう。感性が鈍麻してわかった気になり、裸の王様になってしまう。そんな危険を自分自身のなかに感じている。だからこそ、たとえば「日本人が大嫌いだったはずなのに」という一韓国人の戸惑いとその根底にある歴史的経験というものは、どう逆立ちしても自分のような日本のマジョリティには経験がなく、よって「わからない」という現実を忘れないようにしたいと思っている。

 そして、このことが私にとっての「僕が知っているひとつの事」だということを、改めてーーー。

  さて、これまで3回書き継いできた「言葉のなかに埋められた言葉」の歌シリーズは、まだまだもっと書きたいことはあるのですが、今はちょっとだけお休みします。これは、また状況が落ち着いたら再開します。でも、今回も一曲、私の好きな韓国歌謡を紹介させてくださいね。イ・ドクチン(이덕진)の「僕が知っているひとつの事」(내가 아는 한가지)、1992年の大ヒット曲です。巴山洞を見下ろす学生寮の中庭で、夜ごと、誰かれとなく学生たちがよく愛唱していた歌です。今回は記事の内容と歌の歌詞とはあんまり関係ないですが、一応、歌詞と日本語訳を貼っておきます。

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작사 : 박주연 작곡 : 최성원

살아가는 동안 한번도 안 올지 몰라
사랑이라는 감정의 물결
그런때가 왔다는건 삶이 가끔 주는 선물
지금까지 잘견뎌 왔다는
널 만났다는 건 외롭던 날들의 보상인 걸
그래서 나는 맞이하게 된거야
그대라는 커다란 운명
이  세상에 무엇 하나도 나를 꺽을 수는 없겠지만
너의 뜻대로 살아가는 것만이 내가 아는 한 가지
.
生きているうちに一度も訪れないかもしれない 愛という感情の波
そんな時が訪れたのは人生が時折くれる贈り物 これまでよく堪えてきたねと
君に出会えたのは寂しかった日々の報いだということを
だから僕は迎えたのさ、君という大きな運命を
この世に何ひとつ、僕を挫くことのできるものなどないけれど
君の思いのままに生きていくことだけが、僕が知っているひとつの事
 
네가 원하는 건 나 또한 원하는 거야
이미 나는 따로 있질않아
이별이라는 것 또한 사랑했던 사람만이
가질 수 있는 추억일지 몰라
널 만났다는건 외롭던 날들의 보상인 걸
그래서 나는 맞이하게 된거야
그대라는 커다란 운명
이 세상에 무엇하나도 나를 꺽을 수는 없겠지만
너의 뜻대로 살아가는 것만이 내가 아는 한가지

君が願うことは僕もまた願うことさ、すでに僕は別にいるんじゃない
別れというものもまた愛した者だけに与えられた追憶かもしれない
君に出会えたのは寂しかった日々の報いだということを
だから僕は迎えたのさ、君という大きな運命を
この世に何ひとつ、僕を僕を挫くことのできるものなどないけれど
君の思いのままに生きていくことだけが、僕が知っているひとつの事

 

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(1991年夏、大邱にて学生と。註:本文に出てくる大学院生とは別人です!)

言葉のなかに埋められた言葉を③ ―朝になれば去りゆくあなたへ:金鍾燦の別れ歌―

パク・レグンさんのこと―四半世紀を超えて

 今回はシン・ヒョンウォンの続編として1987年の「터」(地)を取り上げるつもりでしたが、ハノイでの米朝会談が合意に至らなかったとの報を受け、「統一」を謳いあげたこの歌は他日を期することにしました。

 先週、韓国に行ってきました。目的のひとつが「人権財団サラム」代表のパク・レグンさんに会うことでした。パクさんとの面会は3度目の正直でした。1度目は2015年3月にソウルの香隣教会でほんの一言あいさつを交わしただけですが、パクさんの方は全く記憶にないそうです(泣)。2度目は昨年7月に会う約束でしたが、ソウルに着いた日の早朝に、1987年1月の水拷問事件で犠牲となったソウル大生・朴鍾哲のアボジ、朴正基さんが亡くなったため、葬儀を取り仕切るパクさんの時間がとれなくなり、鍾路3街のコーヒーショップで小一時間ほど話をしただけで別れました。

 パク・レグンという名前を知ったのは1993年か94年のことです。民主化運動における犠牲者たちについて調べ始めたばかりの頃、毎日、ソウルの南山図書館にこもって雑誌や新聞の記事を渉猟していました。私はその名前を、ある進歩的な月刊誌のなかに見つけたのです。

1991年4月26日、デモの渦中で機動隊に殴り殺された姜慶大という学生の葬儀の模様について、とりわけ遺族たちに焦点をあてた描写がなされていました。運動によってわが子を喪った親たちの心理に関心を寄せていた私には、まさに必読の記事でした。しかし、それにもまして私の目を釘付けにしたのは、「パク・レグン」という著者の名前でした。

1970年11月13日に勤労基準法の遵守を訴えて焼身自殺した全泰壹から、1980年代をへて、1991年の姜慶大の死とそれに続く抗議の自殺者たちのなかに、1988年6月4日に「光州は生きている!」と叫んで焼身自殺をとげた「パク・レジョン」という学生がいたのです。

パク・レジョンと、パク・レグン。

韓国で、特に男児の名づけには「トルリムチャ」(行列字)が使われます。「トルリムチャ」とは、兄弟や(代を同じくする)親戚のあいだで共有される文字のことです。この場合は「来(レ)」の字を共有する朴(パク)氏として、私にはなんとなくパク・レグンという書き手がパク・レジョンの兄弟か、そうでなくとも、ごく近しい親戚のように見受けられたのです。とても偶然のようには思えませんでした。

以来、ずっと気にかけてきました。雑誌などでパク・レグンの名を見つけると必ず目を通し、数年前にFacebookでその名を見つけた時にはすかさずフォローしました。

2014年4月16日のセウォル号惨事の後、Facebookのパク・レグン氏はいち早く「4・16連帯」という支援団体を立ち上げ、真相究明を求めて、遺族たちに寄り添って共闘していました。その姿をリアルタイムで追いながら、この人はパク・レジョンとはあまり似てないけれど、間違いなくパク・レジョンの兄弟だと、確信を深めていったのです。

もし、パク・レグンなる人物が本当にパク・レジョンの兄弟だとしたら、この人は一体どんな悲しみと心的外傷を抱え、また活動家としてどれほどの辛酸を舐めながら、現在に至ったのだろうか?と、プロフィール写真の柔和な笑顔を眺めては考え込んでいました。これはパクさんと実際に出遭うまで、実に四半世紀にわたり巡らせてきた思いでした。

2015年3月末、私はたまたま出席していた明洞の香隣教会で、図らずもパク氏の講演を聴く機会を得ました。セウォル号で亡くなった高校生の親たちの嗚咽に包まれた生々しい証言に続いて、厳しい表情を浮かべたパク氏による現状説明に耳を傾けました。

講演後、簡単な挨拶だけさせてもらいました。確かめたかったのは、ただ一つのこと。

「先生はパク・レジョン烈士のご遺族ですか?」

「はい、レジョンは弟です。」

 それだけ応えると、足早に教会を後にして行きました。教会周辺には私服警官がたむろし、出入りする人々に鋭く目を光らせていました。さほど日をおかず、彼は突然、これといった罪状もなく警察に拘留され、しばらく出てきませんでした。セウォル号惨事1周忌の追悼行事が目前に迫るタイミング。朴槿恵政権による国策逮捕国策捜査としか思えませんでした。

拘留中にある人がFacebookに投稿した記事を通じ、パクさんがかつて民主化運動犠牲者の遺族会(現・全国民族民主遺家族協議会)で事務局長だったこと、私が遺族会に通い始めたのは、彼が事務局を辞めたのとほぼ入れ違いだったことを知りました。

 

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「人権財団サラム」代表のパク・レグンさん、スタッフのユン・ジソンさんと

 

金鍾燦「사랑이 저만치 가네(愛が離れて行くね)」(1987年)を聴きながら

 ソウルに向かうアシアナ航空の機中で、数十年ぶりに金鍾燦(キム・ジョンチャン)のバラードを聴きました。「사랑이 저만치 가네(愛が離れて行くね)」(1987年)を耳にした時、胸が塞がれそうになりました。

1988年初秋、私はこの歌を慶熙大学近くの喫茶店で初めて聴いたのです。1年間の留学生活を終えて帰国する数日前のことです。向かい合ってお茶を飲んでいる男子学生は恋人でも何でもないのに、やけに切ない気持ちにさせられるのです。

https://www.youtube.com/watch?v=cVRPknBH7mM

 

*「사랑이 저만치 가네(愛が離れて行くね)」歌詞

사랑이 떠나 간다네 이 밤이 다 지나가면

우리의 마지막 시간을 붙잡을 수는 없겠지

사랑이 울고 있다네 이별을 앞에 두고서

다시는 볼 수 없음에 가슴은 찢어지는 데

 

愛が去って行くね この夜が過ぎ去れば

ぼくたちの最後の時間は この手から離れてしまうんだね

愛が泣いているね 離別を前に

二度と会えないことに 心は泣いているのに

 

이제 이별의 시간이 다가오네 사랑이 떠나가네

나는 죽어도 너를 잊지는 못할거야

아침이면 떠날 님아

 

もう離別の時が近づいている 愛が去って行く

ぼくは死んでも 君を忘れないだろう

朝になれば去りゆくあなたよ

 

사랑이 저만치 가네 나 홀로 남겨놓고서

세월아 멈춰져 버려라 내 님이 가지 못하게

 

愛が離れて行くね ぼく一人を置き去りにして

歳月よ 止まってしまえ ぼくのあなたが行ってしまわぬように

 

이제 이별의 시간이 다가오네 사랑이 떠나가네

나는 죽어도 너를 잊지는 못할거야

아침이면 떠날 님아

 

もう離別の時が近づいている 愛が去って行く

ぼくは死んでも 君を忘れないだろう

朝になれば去りゆくあなたよ

 

사랑이 저만치 가네 나 홀로 남겨놓고서

세월아 멈춰져 버려라 내 님이 가지 못하게

내 님이 가지 못하게 내 님이 가지 못하게

 

愛が離れて行くね ぼく一人を置き去りにして

歳月よ 止まってしまえ ぼくのあなたが行ってしまわぬように

ぼくのあなたが行ってしまわぬように

ぼくのあなたが行ってしまわぬように

 

 今さらのように歌詞を注視してみると、「너(ノ)」と「님(ニム)」という二つの二人称が使い分けられています。近しい間柄で呼び合う「ノ」は「君、あんた」程度の軽いニュアンスといっていいでしょう。対して「ニム」は、「言葉のなかに埋められた言葉を①」で書いたように(https://gwangju.hatenablog.com/entry/2019/02/25/134937)、思慕する対象としての「あなた、そなた」を指し、時に祖国などの擬人化された対象に対しても投げかけられる呼称です。

 「ノ」と「ニム」が混在したこの歌の主人公は、一体、誰に向けて離別の悲しみを歌っているのだろうか?

 先に紹介したチョー・ヨンピル、シン・ヒョンウォンもですが、この歌もまた「歌を求める人々」にとって、言葉のなかに埋められた言葉を掘り起こさせる歌だったのではないかと思うのです。一見、恋人との切ない別れの歌のようでありながら、死別の歌とも受け取れるからです。

 

「朝になれば去りゆくニムよ」

 日本でも葬儀の前に「通夜」を行うように、一日と一日の境界にある「夜」はこの世からあの世への過渡を象徴する時間です。

むかし、京畿道のある村で、巫女(ムダン)が取り仕切る死霊祭(葬儀)に立ち会ったことがあります。死者の霊を降ろして口寄せしたり、死者を極楽に送って下さいと祈願したりといった、いくつもの祭儀を夜通しで行なった後、最後に「キル・タックム(道磨き)」と呼ばれる手順を踏みます。

東の空が白み始める頃、全員で中庭に出て、あの世への道を象徴する白布を延べてから、その真ん中を裂くようにして、ゆっくりと巫女が前に進む。裂かれた布が真っ二つになった時、あの世への道が開かれ、死者は完全にこの世から去ってしまうのです。巫女の体が最後の1ミリを突破した直後に、遠くから一番鶏が啼くのが聞こえました。

「朝になれば去りゆくニムよ」の一節に、私はあの時、目にしたキル・タックムの光景をしばしば重ねたものでした。

なお、キル・タックムのモチーフは、1987年6月抗争の犠牲者・李韓烈の民主国民葬において、舞踊家の李愛珠(当時・ソウル大教授)が鎮魂の創作舞踊の中に取り入れています。

 

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全羅南道珍島の「キル・タックム」

 

されど、「ぼくのニムが行ってしまわぬように」と・・・

 韓国語では「死」に対しても、「行く」「送る」などの動詞がよく使われます。たとえば、1987年6月9日に催涙弾に斃れ、7月5日に亡くなった李韓烈の追慕写真集のタイトルは『君は行くのか、どこへ行くのか』というものでした。

 セウォル号が沖合に沈む珍島の港に、「オンマ(母ちゃん)の黄色いハンカチ」が結わえ付けられているのを見ました。2015年3月のことです。

 

  2014.4.16
この日の前日に戻れるものなら
おまえたちを抱きしめて
絶対どこへも送らない(=行かせない)
本当にごめんね・・・

 

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珍島港の「オンマの黄色いハンカチ」:2015年3月撮影

 

 「絶対どこへも行かせない」には、物理的な移動に限らず、直截にいえば「死なせない」(=あの世へは行かせない)という含意があります。「ぼくのニムが行ってしまわぬように」という金鍾燦の歌詞からも、同様の意味が汲み取れるのではないか。

セウォル号惨事の遺された親たちは「この日の前日に戻れるものなら」と嘆き、金鍾燦は「歳月よ、止まってしまえ」と歌います。生きて別れる場面でもこのような仮定法は可能でしょうが、もう今生では二度と会うことのない別れであればこそ、もはや巻き戻せない時間をめぐる仮定法は、まるで身が引きちぎられるような、切実なまでの後悔として歌われるのではないでしょうか。

 1988年6月4日、25歳になった誕生日の翌日に「天下の不孝者をお許しください」で始まる父母あての遺書を残し、「光州は生きている!」と叫んで自分の身に火をつけたパク・レジョン。光州で灰になった「民主の火種」をふたたび燃え上がらせようと、「一握りの灰」になることを自らに任じたパク・レジョン。

パク・レグンさんのオフィスに併設された追慕室に、焼け残ったジーンズの布切れが遺品の一つに納められているのを見ました。それは本当に一片の布切れでした。どれほど激しく身を焼いたのか、想像せずにはいられませんでした。

そして「炭の塊」と変わり果てた弟を、一つ違いの兄はどんな思いで見送ったのか・・・とも。パク・レグンさんは焼け残った布を指して、「韓国では元来、こうした死者の遺品は全部焼いてしまうものですが、私たちはあえてそうしませんでした」と説明しました。

それは、金鍾燦の言葉を借りれば「ぼくのニムが行ってしまわぬように」ということではなかったか? 弟レジョンを含めた全ての死者を記憶し忘れずにいることで、死者たちが命に代えて渇望した理想の社会を実現しようとするパク・レグンさんの生き方が、おのずとそう物語っているように思えます。たとえ時間は巻き戻せなくとも、死者を愛することで、死者たちは生かされる。それどころか生者のなかに遍在し、やがて生者たちの先頭に立って社会を動かす資源となる。いや、そうしなくてはならないのです。あえて遺品を残したことは、そんな決意の表れだったのではないでしょうか。

 ちょうどその頃、街には「ぼくのニムが行ってしまわぬように」とくり返し歌う、金鍾燦のバラードが流れていたのでした。

付言すれば、これは韓国民主化運動の根底に流れる独特の死生観です。私はそこに尹東柱の「序詩」にある、「全ての死にゆくものを愛おしまなければ」という一節を重ね合わせるのです。

 

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パク・レジョン烈士の墓:モラン公園

言葉のなかに埋められた言葉を② ―学生街のシン・ヒョンウォンin 1984―

 前回に引き続き、和合亮一さんの詩「風に鳴る」を手掛かりに、1980年代の韓国歌謡を振り返ります。

 

ある日のことです

ある言葉が消えてしまったのです

わたしの家の庭には、今もまだ

土の中に土が埋められています

言葉の中に言葉が埋められています

土から土を 言葉から言葉を

掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか

電信柱に呟いてみました

電線が風に鳴って

電線が風に鳴りました

 

 私の記憶では、シン・ヒョンウォン(辛炯琬、1958年~)ほど80年代の学生街に似合う歌手はいなかったと思います。憂いを含んだ力みのない歌唱で、どこか旋律に翳りのある歌を淡々と歌っている印象がありました。ストレートのロングヘアに、当時流行りの黒縁メガネをかけた彼女は、その独特の声質ともあいまって、とてもアンニュイなイメージを醸していました。シン・ヒョンウォンが歌う歌詞はどれも隠喩めいていて、あの頃、街に流れていた歌のタイトルだけ思い浮かべても、「火種」「ガラスの壁」「蛍」「予期せぬ風」など、どれも儚げなイメージを想起させるものでした。うがった見方をすれば、1980年代前半という暗鬱な時代に、それは厭戦的で敗北主義的な響きすら帯びていたのではないかと思えるのです。

 

유리벽(ガラスの壁)」(1984年)

 そもそも冒頭にあげた詩人・和合亮一の問いかけが私の心に留まったのは、久しぶりに聴いたシン・ヒョンウォンがきっかけでした。「유리벽」(ガラスの壁)をYouTubeで聴きながら、そこに書き込まれた一つのコメントに視線が吸い寄せられてしまったのです。

 

セウォル号惨事の追悼行事で使われたらよいのにと思います。歌詞が胸に迫ってきま

す。」

 

この書き込みは「4年前」となっているので、済州島に向かう約400人の修学旅行生を乗せた大型旅客船セウォル号の沈没事故(2014年4月16日)から、まだ日が浅かったのでしょう。

 なぜ、セウォル号惨事の追悼行事にこの歌を?

 歌詞については後から紹介するとして、まずは光州抗争を描いた版画「5月」の連作で著名な洪成潭(ホン・ソンダム)が「セウォル・オウォル」と題して描いた作品の一部をみていただきたいのです。船室のガラス窓のあちら側、取り残された子どもたちの苦悶にゆがむ表情を―――。間近に顔と顔を寄せあい、こちら側とあちら側とで手のひらを合わせることだって出来るのに、生と死を隔てる非情なガラスの壁を。

 

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 その後、また違うユーザーがこんな書き込みをしています。

 

 「薄いガラスの壁を、多くの歳月(セウォル)が流れすぎようと、破ることのできない私。そして諦念した、このガラスの壁・・・」

 

 もちろん、これは字義どおりに受けとるべきコメントかもしれません。しかし投稿者の意図とは無関係に、そこに記された「歳月」という言葉から、隠されたもう一つの言葉を掘り出そうとする読み手もいるにちがいありません。

 珍島沖に沈んだその船の名は漢字では「世越」と書くのですが、これは「歳月」と同じ音で、セウォル(세월)と読みます。セウォル号を歳月と引っ掛けて語る言い方は、たとえば「セウォルが流れても」(パク・キョンホ、2014年)という版画作品のタイトルにも表れています。そこに描かれるのはセウォル号で犠牲になった女子高生と、背後で彼女を救助しようと抱きかかえる潜水士です。

 ですから、前述のコメントは、投稿者自身がすごしてきた人生の歳月であると同時に、“セウォル(歳月)が流れても”一向に真相究明の進まないセウォル号惨事に対する焦燥と、この事件があらわにした韓国社会の不条理を前になすすべのない無力感や、自身にも帰せられる罪責感を言い表している、とも受け取れるのです。

 

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 これらのことを踏まえて、シン・ヒョンウォンの「유리벽」(ガラスの壁)に今いちど耳を傾けると、それはたしかにセウォル号惨事の歌でもある、ということに気づかされるのです。船は、高校生たちの「友情」と、生きていれば未来に紡がれたであろういくつもの「愛」をガラスの壁に閉じ込めたまま、此岸から手を伸べる愛する人々の目前で非情にも沈んでいったのでした。

 

*歌詞

 私があなたの手を取ろうとしても つかめなかった

 目には見えない その何かが 私を悲しませたの

 

 私には感じられる ぶつかってくるその音が

 友情も 愛も ガラスの壁の中に閉じ込められていたの

 

 ガラスの壁 ガラスの壁 誰にも破ることができない

 誰もが知らんふりしている 目には見えないガラスの壁

 

 (間奏)

 

 私には感じられる ぶつかってくるその音が

 友情も 愛も ガラスの壁の中に閉じ込められていたの

 

 ガラスの壁 ガラスの壁 誰にも破ることができない

 誰もが知らんふりしている 目に見えないガラスの壁

 

 

내가 너의 손을 잡으려 해도 잡을 수가 없었네 
보이지 않는 그 무엇이 나를 슬프게 하였네

나는 느낄 수 있었네 부딪히는 그 소리를 
우정도 사랑도 유리벽 안에 놓여있었네 

유리벽 유리벽 아무도 깨뜨리질 않네 
모두가 모른 척하네 보이지 않는 유리벽 

(간주)

나는 느낄 수 있었네 부딪히는 그 소리를 
우정도 사랑도 유리벽 안에 놓여있었네

유리벽 유리벽 아무도 깨뜨리질 않네 
모두가 모른 척하네 보이지 않는 유리벽 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=EqX6DotZ4nI

 

こうして言葉のなかに埋められた言葉が掘り出されることで、1984年に世に出たこの歌は、ふたたび意味を与えられた現代の歌となるのです。

 

불씨(火種)」(1984年)

 1984年、シン・ヒョンウォンは前述の「유리벽(ガラスの壁)」とともに、「불씨(火種)」でデビューしています。この歌もまた、虚無感と切なさに包まれた旋律と、独特の隠喩的な詩の世界からなっています。

 

*歌詞

 誰が私を愛したからといって

 今はもう 愛の火花を燃やせない

 悲しい私の愛は 風に飛んで

 熱い涙の中へと消えていったの

 

 空っぽの胸に 灰だけが残った

 火種よ 火種よ もう一度 火をつけて

 

 とうとう火種は絶えて 消えてしまった

 今はもう 愛の火花を燃やせない

 

그 누가 나를 사랑한다고 해도 
이젠 사랑의 불꽃 태울 수 없네
슬픈 내사랑 바람에 흩날리더니
뜨거운 눈물 속으로 사라져버렸네

텅빈 내 가슴에 재만 남았네
불씨야 불씨야 다시 피어라 

끝내 불씨는 꺼져 꺼져 버렸네 
이젠 사랑의 불꽃 태울수 없네 

https://www.youtube.com/watch?v=JNv__84JW2U

 

歌詞を素直に読めば、これは愛を失い虚無にたたずむ失恋の歌として、すんなりと受け止められそうです。

しかし「歌を求める人々」は、「火種」や「灰」といった言葉の中から、そこに埋められたもうひとつの意味を掘り当てたはずです。

当時、民主化運動の人々の口から「民主の火種」という言葉が語られるのを、しばしば見かけた記憶があります。朴正熙政権の独裁に抵抗した1979年10月の釜馬抗争、朴正熙暗殺をはさんで、民主化への希求が高揚した1980年「ソウルの春」、そして民主化の気運を銃剣で踏みにじった全斗煥の新軍部に対峙して、市民たちが激しい抵抗の火花をあげた5月の光州抗争。しかしそれは空挺部隊の投入により、おびただしい犠牲とともに、実にあっけなく制圧されてしまった。こうしてある者は死に、ある者は獄につながれ、ある者は地下に潜る。この歌が街に流れた1984年とは、いまだそんな時代でした。光州を生き延びた者たちは死者たちの無念を身にまとい、闘いの火花が鎮火された後もかすかにくすぶる「民主の火種」を絶やさぬよう、来たるべき時に備えて運動理念を鍛えつつ、雌伏の時をすごしていたのです。

 「灰」という言葉も、民主化運動の場面でよく使われてきました。「彼は一握りの灰になってしまった」といえば、それはまつろわぬ無念の死を意味しました。また決死の覚悟を述べる時には、その比喩として「この身が一握りの灰になろうとも」という表現が使われました。

天寿をまっとうすることに価値をおく朝鮮儒教の規範では、子孫を残して安らかな死を迎えた者には葬礼を施し、土葬の墓を造営し、子々孫々にわたって祭祀を営むことになります。一方、そうでない死者については屍を墓標もなく野山に葬り去るか、火葬した骨粉を野山や川に撒いてしまうかして、その人が生きた痕跡すらも消し去ってしまうのです。天寿をまっとうできなかった死者とは、年端いかない者や未婚者の死はもとより、変死、客死、自殺、事故死など、日本風にいえば「畳の上で死ぬ」ことができなかった人たちも含まれます。つまり「一握りの灰」とは、この世に怨恨や未練を残して死んだまつろわぬ死者の象徴であり、よって、義憤を抱いて死んだ民主化運動の犠牲者たちの行く末を暗示する言葉にもなりえるわけです。

 シン・ヒョンウォンは歌います。火花は燃え尽き、灰だけが残った、と。だが、物語はそれで終わってしまうのだろうか?

 民主化運動の語りでは「民主の祭壇に身を捧げる」という表現もよくなされます。1980年6月4日、情報統制下のソウルで光州の惨劇をいち早く訴えようとした労働者・金鍾泰は、光州の犠牲者たちに報いるためなら、この身を火にくべても惜しくはないと言って、いけにえとしての焼身自殺をとげました。彼は、光州の灰の中から「民主の火種」を拾い集め、自分の身に火をつけることで、これをふたたび燃え上がらせようとしたわけです。たとえ、「この身が一握りの灰になろうとも」―――。

 シン・ヒョンウォンは絶唱します。

 

火種よ 火種よ もう一度 火をつけて!

 

 光州の惨劇をへた政治の冬の季節にあって、「불씨(火種)」は、言葉のなかに埋められた言葉を掘り出そうとする人々にとって、運動の再燃と勝利を期するプロテストソングにもなりえたのではないでしょうか。

 事実、2006年9月10日付のハンギョレ記事「大衆―民衆歌謡を行き来する“輝かしい例外”」によれば、「불씨(火種)」は発売当時、すでに一部のあいだでは光州を描いた歌とささやかれ、格別に受け入れられたとのことです。「유리벽(ガラスの壁)」と「불씨(火種)」のプロデューサーがソ・ヒドクというDJ出身の人物だったことが示唆するように、これらの歌はラジオの電波に乗り、音楽喫茶で多くのリスナーに知られることになりました。

http://www.hani.co.kr/arti/PRINT/155828.html


 1987年、シン・ヒョンウォンはさらに「개똥벌래(蛍)」「터(土地)」というヒット曲を放ちます。その頃、私はソウルの学生街にある音楽喫茶で、リアルタイムでその歌声を聴きました。そしてシン・ヒョンウォンの歌の世界に深い感銘を受けました。次回はこの1987年の2つの歌を取り上げたいと思います。

言葉のなかに埋められた言葉を① ―1983年の趙容弼―

久しぶりのブログです。最後に更新したのが昨年9月、半年以上ものご無沙汰でした。

 昨年から今年にかけて民主化運動を扱った韓国映画が大ヒットし、その余波で私も多忙な日々を過ごすことになりました。11月に「1987、ある闘いの真実」に寄せて、現代ビジネスで2度目となる記事を書きました。

gendai.ismedia.jp

 

また12月公開のドキュメンタリー映画共犯者たち」「スパイネーション/自白」では、パンフレットに「声なき声の実在性」と題する解説を書かせていただきました。

 

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そんなこんなで1年があっという間に過ぎ去りました。思い返せば、2018年という年は四半世紀にわたる韓国民主化運動研究の総決算-初めて社会から必要とされアウトプットできたという意味で―だったとともに、初めて韓国を旅した1983年春以来、目で見て耳で聞いて肌で感じてきた韓国の風景を思い返す機会にもなりました。ことに大衆歌謡は韓国語の勉強も兼ねていつも熱心に聴いていたので、あるメロディを耳にするだけで街の風景と匂いとがひとかたまりになって蘇ってきます。

ことに昨年は、映画を通じて1980年代にタイムスリップしながら、そんな歌の数々をYouTubeで聴きなおすことを、折をみては繰り返していました。

 

「土から土を 言葉から言葉を」

ある日、書店で立ち読みした『文芸春秋』で、ひとつの印象的な詩とであいました。福島の詩人・和合亮一さんの「風に鳴る」です。

 

ある日のことです

ある言葉が消えてしまったのです

わたしの家の庭には、今もまだ

土の中に土が埋められています

言葉の中に言葉が埋められています

土から土を 言葉から言葉を

掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか

電信柱に呟いてみました

電線が風に鳴って

電線が風に鳴りました

 

 

 私が探していた「言葉」はこれだ。そう直感しました。1980年代の韓国が、光州事件の傷を記憶し、その後も続いた軍事独裁政権のもと、分断暴力による死と傷を数知れず経験していたのはいうまでもありません。当時、厳しい監視と情報統制により言葉が奪われ、光州の惨劇を公に語ることは許されず、「民衆歌謡」と呼ばれた運動歌は地下で非合法に歌われました。そんな「ある言葉が消えてしまった」言論弾圧の時代に、大衆歌謡の作り手たちは歌の言葉にどんな言葉を潜ませたのか。また大衆歌謡の聴き手たちはそこにどんな言葉を探り当てようとしたのだろうか?

 あの頃、私が好んで聴き、口ずさんでいた、巷に流れる歌たちには、憂愁をおびた旋律に乗せて、隠喩的な語彙を含んだものが多かったように思われるのです。

和合さんの詩を一目みて、すとんと腑に落ちたような気がしました。

 

土から土を 言葉から言葉を

掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか

 

 

 時代に向かってそう問いかける絶唱が、あの時代の韓国の歌たちだったのではないか、と思い当たったのです。

そこでこれから数回に分けて、私がいつも好んで聴いていた1980年代の韓国歌謡を取り上げながら、言葉のなかに埋められた言葉を掘り出す試みをしてみたいと思います。

初回はまず「永遠のオッパ」こと、趙容弼から―――。

ja.wikipedia.org

 

「チングよ」(1983年)

私の最初の韓国語教師は趙容弼でした。大学2回生になった1983年春、釜山に住むペンパルの男子学生が送ってくれたファースト・アルバム『窓の外の女』(1979年)のカセットテープを毎日擦り切れるほど聴いていました。映画「タクシー運転手―約束は海を越えて」のオープニングに使用された「タンバル・モリ」(おかっぱ頭)も、このアルバムの収録曲です。

1987年に留学生としてソウルで暮らすようになってからは、バスやタクシーの運転手が運転中に流すラジオやカセットテープ、またテレビの歌番組などを通じて、さまざまなジャンルの他の歌手たちの歌声にも触れることになりますが、それまでは趙容弼が私の唯一の韓国語の先生でした。

最近、ネットで調べ物をしていて偶然、2002年の『新東亜』に載った趙容弼のロング・インタビューを見つけました。http://shindonga.donga.com/Print?cid=102048

そこでは全斗煥政権の所謂「第五共和国」と趙容弼、そして当時さかんだった民主化運動勢力との関係についても言及され、たいへん興味深い話が語られていました。民主化運動に従事した学生たちは「チングよ」(友よ)を愛唱していたそうです。歌っている趙容弼自身に全くそんな意図はなかったのですが、彼らは監獄に連行される友を思って歌うばかりか、そもそも「チングよ」が自分たちの境遇を歌った曲だと確信していた。それで趙容弼に対して、とても深いシンパシーを抱いていたそうです。
 この話はちょうど私が趙容弼を聴いていた時代と重なります。私はこの歌を青春歌謡の一種と受け止めた以外は何も詮索することなく、字義どおりに旧い友を懐かしむ歌として「チングよ」を聴いていました。それなのに、同じ時代に、自分と同じ世代の学生たちが、この歌の言葉に「監獄に連行される友」を投影していたとは、なんと新鮮な驚きだったことでしょうか。

 光州の傷を引きずり、民主化を求める闘いのさなかで友を亡くし、また多くの仲間たちを監獄に捕らわれた当時の学生たちは、「チングよ」の詩の中から、言葉のなかに埋められた言葉を掘り出そうとしたわけです。

 

*歌詞

1.夢は空の上でまどろみ 思い出は雲に乗って流れ

  友よ 面影はどこへ行ったの? 恋しい友よ

2.昔のことを思い出すたび 忘れてしまった情を探して

  友よ 夢で逢えるだろうか 静かに目を閉じるよ

 

悲しみも 喜びも 寂しさも 分かち合ったね

青雲の夢を抱き 明日を誓いあった 堅い約束はどこへ

 

3.1を繰り返し

 

1.꿈은 하늘에서 잠자고 추억은 구름 따라 흐르고
친구여 모습은 어딜 갔나 그리운 친구여

2.옛일 생각이 날 때마다 우리 잃어버린 정 찾아
친구여 꿈속에서 만날까 조용히 눈을 감네

 

슬픔도 기쁨도 외로움도 함께 했지
부푼 꿈을 안고 내일을 다짐하던 우리 굳센 약속 어디에

 

3.꿈은 하늘에서 잠자고 추억은 구름 따라 흐르고
친구여 모습은 어딜 갔나 그리운 친구여

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=fCTbT85876s


「漢江」(1983年)

「漢江」は1980年代半ば、たまたま屋台で購入した海賊版のカセットテープに入っていた一曲でした。漢江(ハンガン)はソウル中央部を流れる大河で、江南(カンナム)と呼ばれる南岸一帯に立ち並ぶ高層アパート群は1970年代の高度経済成長の象徴とされ、「漢江の奇跡」ともてはやされました。

私が最初に感銘した漢江にまつわる語りは、1983年春に初めて韓国を旅したとき、川べりの道路を走るバスの中で、年配の女性ガイドが語った朝鮮戦争の話でした。北朝鮮人民軍の南下を阻止するために韓国軍が漢江大橋を爆破させ、多くの避難民たちが巻き込まれて犠牲になったといいます。彼女はこの話を次のような言葉で締めくくりました。

「漢江はいにしえの昔より、このようにわが民族の苦難の歴史を抱き、見つめつづけてきたのでございます。」

 漢江を擬人化し、連綿と続く民族史のなかに位置づけてみせるガイドの語りが、その後も私の中に潜在していたせいかもしれません。「漢江」のメロディを耳にした瞬間、とてつもないスケール感に包まれたことを、今でもありありと思い出します。そして少しずつ内容が聞き取れるようになると、そこに込められた壮大で深遠な歴史観にまたしても圧倒されました。

「漢江」は趙容弼の作品の中で、今でもいちばん好きな楽曲です。「歴史(ヨクサ)」や「民族(ミンジョク)」といった韓国語の観念世界を、私はこの曲によって初めて感受したように思います。

※歌詞
一曲りして流れる悲しみ、二曲りして溢れる愛

1.美しい陽を浴びて水影をたたえ、夜には月光を浴びて悲しみを消した
億年の息吹に絡みつく歳月、億年の波はこの胸に打ち寄せる音、漢江は流れる

2.愛しい君(ニム)が行かれる道へと漕いで送り、恋しい思いよ、空っぽの船で揺れている
億年の息吹に絡みつく歳月、億年の波はこの胸に打ち寄せる愛、漢江は流れる
億年の波はこの胸に打ち寄せる愛、漢江は流れる

 

한굽이 돌아 흐르는 설움 두굽이 돌아 넘치는 사랑 워우워~

1.한아름 햇살받아 물그림 그려놓고 밤이면 달빛받아 설움을 지웠다오 
억년의 숨소리로 휘감기는 세월 억년의 물결은 여민가슴에 출렁이는 소리 한강은 흘러간다

2.고운님 가시는길 노저어 보내놓고 그리운 마음이야 빈배로 흔들리네 
억년의 숨소리로 휘감기는 세월 억년의 물결은 여민가슴에 출렁이는 사랑 한강은 흘러간다 
억년의 물결은 여민가슴에 출렁이는 사랑 한강은 흘러간다

 

https://www.youtube.com/watch?v=o74x2ZcWkIA&feature=share

 

漢江は以北(現・朝鮮民主主義人民共和国)の江原道通川郡を源とする北漢江に、江原道南部に発する南漢江が合流し、ソウルを貫通した後、さらに臨津江(イムジンガン)と合流して黄海へと注いでいます。前掲の歌詞にみるように、「漢江」は、まさに「分断」という俗世の出来事を凌駕した民族の歴史、無数の命をはぐくみ死を包み込んできた悠久の大河を歌っています。

この曲が発表されたのは「チングよ」と同年、1983年のことです。光州事件の惨劇からわずか3年、全斗煥政権による公安統治が強化され、運動勢力は地下に潜って雌伏の時期を過ごしていました。権力の追っ手を逃れた運動勢力は地下化、先鋭化が進み、80年代半ばに入り、やがて表出される反米民族主義の運動理念をひそかに鍛えつつあった頃です。もちろん歌の作り手にも歌い手にもそんな政治的意図はなかったにちがいありません。しかし、この歌を聴いた人々はどう受けとめただろうか、と思うのです。それほど「漢江」の歌詞には、隠喩的なイメージがまとわれているということです。

 

美しい陽を浴びて水影をたたえ、夜には月光を浴びて悲しみを消した
億年の息吹に絡みつく歳月、億年の波はこの胸に打ち寄せる音、漢江は流れる

 

 この詩に表れた漢江の悠久のイメージは、あのガイドが語った「わが民族の苦難の歴史を抱き、見つめつづけてきた」という言葉にも共振するのです。このわずかなフレーズから、漢江のたゆたう水面に朝鮮戦争がもたらした民族分断の悲劇と、その後の分断暴力が招いた(光州事件をはじめとする)理不尽な犠牲の数々を想起することは、十分に可能であったと思います。


愛しい君(ニム)が行かれる道へと漕いで送り、恋しい思いよ、空っぽの船で揺れている

 

「ニム」とは「君、あなた」などを指す二人称ですが、韓龍雲の詩「ニムの沈黙」や、光州事件の弔い歌「ニムのための行進曲」と同様、祖国をニムと見立てて、擬人化された「思慕する対象」への呼びかけとして読み解くこともできるでしょう。

愛しい君(ニム)とは誰だろうか、船を漕いでどこへ送ろうとするのか?

それは文字どおり、船に乗って去りゆく愛しい人との別離かもしれない。

あるいは「空っぽの船」とは、死霊祭を行なうシャーマンが死者の魂を乗せて極楽浄土へと送る、あの「船流し」の藁船のことかもしれない。だとすれば、愛しい君とは、この世から離別した死者をさすことになる。

また、ニムを擬人化された「祖国」と見立てるならば、それはそれで、1983年という暗雲たれこめる冬の時代の表象ともなりうるだろう。

ノンフィクション・ライターの野村進一は『コリアン世界の旅』で、歌に込められた在日コリアンの「シークレット・コード」ということを述べています。この伝でいえば、「漢江」の作品世界にも、そんなシークレット・コードが埋め込まれているのではないか…、そんな気がするのです。

 そういえば、これも奇妙な偶然ですが、民衆歌謡の歌い手たちがひそかに「노래 찾는 사람들」(歌を求める人々)というグループを結成したのも、1983年のことでした。

 歌を求める人々―――。

 なんとシンボリックな名づけでしょうか。

 言葉の紡ぎ手である詩人の和合亮一さんは「ある言葉が消えてしまった」と言い、消えた言葉を探し求めて、「言葉から言葉を掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか」と呼びかけました。

 しかし餓え渇く心で歌を、言葉を求めるのは、作り手や歌い手だけではありません。聴き手もまた耳元を流れる歌に向かい、「言葉から言葉を掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか」と問いかけながら、歌の言葉のなかに隠された言葉を探し求めようとしたのです。

作り手・歌い手と聴き手とがそれぞれに歌を求めあう相互作用のなかで、言葉のなかに埋められた言葉が掘り起こされ、意味が紡がれて、歌は歌になっていったのではないだろうか。「チングよ」も「漢江」もそんな歌だったと思えるのです。

時代の先取り

時代が私たちに追いついた?!

 前回の更新からずいぶんと時間が経ってしまいました。

 ブログを立ち上げたのは、ちょうど韓国映画「タクシー運転手」が日本で公開され、大ヒットを記録しているさなかでした。本題の「タクシー運転手」に取り掛かる前に、まず10年前に公開された「光州5・18」に触れた後、演劇「クミの五月」にまつわる劇作家の故・朴暁善の肉声を紹介しながら、徐々に徐々に「タクシー運転手」および「1987」を扱う記事へと着地させる計画でした。

ところがその後、思いがけなくネットメディアで拙文を発表する機会を得(『現代ビジネス』)、

gendai.ismedia.jp

そればかりか「1987」公開に前後して、公共の電波で韓国民主化闘争について話をする機会まで与えられ(TBS‐CSテレビ「ニュースバード」9月7、8日)、

f:id:gwangju:20180915131625j:plain

TBSラジオ「荻上チキ session₋22」)、

www.tbsradio.jp

その対応で右往左往しているうちに、すっかりブログの方がお留守になってしまいました。

「1987」については、「タクシー運転手」同様、いずれ何らかのかたちで文章にまとめられればと思っています。

今回は、「タクシー運転手」を観ながら今さらのように実感させられた、文系研究者の役割期待ということについて書きます。

 

「タクシー運転手」のヒットに促されて

 一か月ほど前に、偶然ネットで見つけた短い記事を翻訳します。

 

「1980年当時の外信記者のアジア圏の拠点・日本で5・18記録物を調査

―5・18記録館、25日まで・・・東京中心に資料収集、各国言論社支局等を訪ねて」

(国民日報、2018.6.20)

光州5.18民主運動記録館(以下、5・18記録館)は20日、1980年から38年ぶりに、日本現地で5・18関連記録物の調査作業に取り掛かると発表した。日本の首都・東京は1980年当時、世界主要国の外信記者たちのアジア圏の拠点だった。

5・18記録館は、学芸研究士と通訳官からなる調査団が前日、日本に向けて出国したと説明した。調査団は25日まで東京を中心に現地に滞在しながら5・18記録物を総括収集する活動を行なう。

調査団は、当時、光州の真相を世界に報じた世界有数の各言論社の東京支局を訪問し、関連資料を確保したい計画だ。『光州抗争で読む現代韓国』(*『光州事件で読む現代韓国』の韓国語訳版、2001年刊行)の著者・真鍋祐子など、日本人の5・18研究者らとの面談も予定されている。

また当時、日本で光州抗争に関する情報を伝える多様な刊行物を出していた非政府機構(NGO)や国際機構、市民団体などの所蔵記録物などを直接確認し、収集する作業も並行して行なう。日本での5.18関連記録物調査作業が順調に進めば、政府次元の5・18民主化運動真相究明にとっても助けとなるだろう。

5・18記録館側は、当時光州の真相を映像に収めて地球村に初めて伝播させた「青い目の目撃者」ドイツ人記者のウェルゲン・ヒンツペーターなど主だった外信記者たちが主に東京で活動していた点を勘案し、未公開資料などが多数残っていることを期待している。5・18記録館の関係者は「日本でその間、公開されなかった5・18関連資料が発掘できるよう期待する」とし、「東京だけでなく日本の主要都市の関連資料も収集する予定」だと述べた。

 こうした動きは明らかに「タクシー運転手」効果によるものと思われます。ちなみに、記事には面談予定の「5・18研究者」として私の名前が出てきますが、今のところ「5・18記録館」からは何のアプローチもありません(笑)。まあ、連絡をもらったところで、当事者ではない私に提供できる情報量などタカが知れています。早くから韓国の民主化に関心を寄せ、連帯運動に関わってこられた、情報提供者としてふさわしい方々が、私の周囲にも少なからずいらっしゃいます。

 いずれにせよ、「タクシー運転手」のヒットに促されて、この「5・18記録館」と同様の問題意識を伴った取材や研究が、今後も現れてくるのではないかと思うわけです。

 

「光州研究会」のこと

 私が上記の記事をとても感慨深く読んだのは、2009年5月に結成した「光州研究会」のことを重ねたからです。この研究会は林香里さん(東京大学大学院情報学環・教授)の、光州抗争をジャーナリズム研究としてtransnational advocacy networkの視点で捉えるのはどう?という提案によって始まりました。まだ李明博政権が始まったばかりでしたが、光州抗争の核心に迫ろうとする試みは時期尚早と、林さんも私も理解していました。光州での真相は、情報統制が敷かれた韓国内で長らく秘匿されてきました。むしろ情報の集積地となったのが東京であり、よって岩波書店『世界』を中心とした情報の流れを見てゆくことで、韓国民主化の過程を浮き彫りにできるのではないかと考えたのです。これは林さんの全くオリジナルなアイデアでした。

韓国併合100年と光州抗争30周年を迎える2010年の年頭、福岡県を拠点とする西日本新聞社より取材を受けました。この記事に「光州研究会」結成のいきさつが詳しく記してあります。

 

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 「光州研究会」は林、真鍋、そして2人の女子院生の計4人でスタートしました。そのうち林さんの仕事が忙しくなると、研究会で扱うテーマはそのまま、2人の院生のうちのひとり、李美淑さんのものへとスライドしていきました。

 記事にある「知識人や宗教者の地下交流」が李さんの博士論文のテーマになりました。本当は「在日コリアン社会への影響」についても扱う計画でしたが、2010年に哨戒艦沈事件(3月)と延坪島砲撃事件(11月)が発生し、南北関係が急激に悪化すると、韓国籍の李さんが、かつて民主化闘争にコミットした在日朝鮮人や、ことに朝鮮総連系の在日コリアン社会にアプローチすることは危うくなったのです。

 2015年に博士学位を授与された李さんの論文は、今年に入ってから

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「日韓連帯運動」の時代―1970~80年代のトランスナショナルな公共圏とメディア』として東京大学出版会から刊行されました。

 

 私はこの本を、ぜひとも「タクシー運転手」や「1987」の鑑賞のお供に、と勧めています。扱われるテーマは確かに「知識人や宗教者の地下交流」に的を絞った「光州事件と日本」の関係についてです。しかし『世界』に連載されたT.K生「韓国からの通信」を作り上げてきたのは、韓国民主化に対して意識ある日本人だけとは限りません。李さんは、情報の媒介者として役割を担ったドイツ人の宣教師やジャーナリスト(すでに「タクシー運転手」をご覧になった方には既知の事実ですが)にもインタビューを敢行し、また韓国のキリスト教関係者たちにも亡くなる直前に、間一髪で話を聞くことができました。今となっては貴重な、命がけで韓国民主化闘争に参与した人たちの肉声によって編まれた作品なのです。

 

研究者の役割期待 

 韓国で「タクシー運転手」がクランクインしたというニュースを目にしたとき、最初に思ったことは、おこがましいかもしれませんが、

 

「時代が私たちに追いついた!」

 

 これです。

この一言に尽きるものでした。李さんの本の出版を「タクシー運転手」日本公開が追いかけるかたちになったことも、私としては感無量でした。

 その始まりはささやかな「光州研究会」であり、そこで発せられた林さんの一言でした。

 

「光州抗争をジャーナリズム研究としてtransnational advocacy networkの視点で捉えるのはどう?」

 

 それは今になってみれば、まさに「タクシー運転手」のコンセプトを先取りする問いかけでした。

 1993年、『社会学評論』特集号の対談で、高坂健次と厚東洋輔は、社会学者の役割期待について次のように指摘しています。

 

「80年代の終わりから東欧社会で矢継ぎ早に起こった一連の社会変革と民族紛争は、すでにマクロ社会学の観点から現代を語るときの枕言葉のようになった。社会学者は、狭い意味での専門が何であれ、こうした社会変革の意味について読み解き、将来を予見する役割期待ないしは職業的債務を負っている。」

 

 今から10年近くも前に、光州抗争とメディアとの関係性に目を留めた林さんの社会学者としての慧眼に、ようやく時代が追い付いたのだと思います。

 そのあたりのことは、李さんの力作とともに、もっと知られてもよいと思うのです。

 昨今、人文系学問が役に立つとか立たないとか、生産性があるとかないとか、愚かしい議論が喧しくなされるなかで、これは真に優れた人文系学問の面目躍如ではないでしょうか。

 研究者なめんなよ!