言葉のなかに埋められた言葉を① ―1983年の趙容弼―

久しぶりのブログです。最後に更新したのが昨年9月、半年以上ものご無沙汰でした。

 昨年から今年にかけて民主化運動を扱った韓国映画が大ヒットし、その余波で私も多忙な日々を過ごすことになりました。11月に「1987、ある闘いの真実」に寄せて、現代ビジネスで2度目となる記事を書きました。

gendai.ismedia.jp

 

また12月公開のドキュメンタリー映画共犯者たち」「スパイネーション/自白」では、パンフレットに「声なき声の実在性」と題する解説を書かせていただきました。

 

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そんなこんなで1年があっという間に過ぎ去りました。思い返せば、2018年という年は四半世紀にわたる韓国民主化運動研究の総決算-初めて社会から必要とされアウトプットできたという意味で―だったとともに、初めて韓国を旅した1983年春以来、目で見て耳で聞いて肌で感じてきた韓国の風景を思い返す機会にもなりました。ことに大衆歌謡は韓国語の勉強も兼ねていつも熱心に聴いていたので、あるメロディを耳にするだけで街の風景と匂いとがひとかたまりになって蘇ってきます。

ことに昨年は、映画を通じて1980年代にタイムスリップしながら、そんな歌の数々をYouTubeで聴きなおすことを、折をみては繰り返していました。

 

「土から土を 言葉から言葉を」

ある日、書店で立ち読みした『文芸春秋』で、ひとつの印象的な詩とであいました。福島の詩人・和合亮一さんの「風に鳴る」です。

 

ある日のことです

ある言葉が消えてしまったのです

わたしの家の庭には、今もまだ

土の中に土が埋められています

言葉の中に言葉が埋められています

土から土を 言葉から言葉を

掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか

電信柱に呟いてみました

電線が風に鳴って

電線が風に鳴りました

 

 

 私が探していた「言葉」はこれだ。そう直感しました。1980年代の韓国が、光州事件の傷を記憶し、その後も続いた軍事独裁政権のもと、分断暴力による死と傷を数知れず経験していたのはいうまでもありません。当時、厳しい監視と情報統制により言葉が奪われ、光州の惨劇を公に語ることは許されず、「民衆歌謡」と呼ばれた運動歌は地下で非合法に歌われました。そんな「ある言葉が消えてしまった」言論弾圧の時代に、大衆歌謡の作り手たちは歌の言葉にどんな言葉を潜ませたのか。また大衆歌謡の聴き手たちはそこにどんな言葉を探り当てようとしたのだろうか?

 あの頃、私が好んで聴き、口ずさんでいた、巷に流れる歌たちには、憂愁をおびた旋律に乗せて、隠喩的な語彙を含んだものが多かったように思われるのです。

和合さんの詩を一目みて、すとんと腑に落ちたような気がしました。

 

土から土を 言葉から言葉を

掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか

 

 

 時代に向かってそう問いかける絶唱が、あの時代の韓国の歌たちだったのではないか、と思い当たったのです。

そこでこれから数回に分けて、私がいつも好んで聴いていた1980年代の韓国歌謡を取り上げながら、言葉のなかに埋められた言葉を掘り出す試みをしてみたいと思います。

初回はまず「永遠のオッパ」こと、趙容弼から―――。

ja.wikipedia.org

 

「チングよ」(1983年)

私の最初の韓国語教師は趙容弼でした。大学2回生になった1983年春、釜山に住むペンパルの男子学生が送ってくれたファースト・アルバム『窓の外の女』(1979年)のカセットテープを毎日擦り切れるほど聴いていました。映画「タクシー運転手―約束は海を越えて」のオープニングに使用された「タンバル・モリ」(おかっぱ頭)も、このアルバムの収録曲です。

1987年に留学生としてソウルで暮らすようになってからは、バスやタクシーの運転手が運転中に流すラジオやカセットテープ、またテレビの歌番組などを通じて、さまざまなジャンルの他の歌手たちの歌声にも触れることになりますが、それまでは趙容弼が私の唯一の韓国語の先生でした。

最近、ネットで調べ物をしていて偶然、2002年の『新東亜』に載った趙容弼のロング・インタビューを見つけました。http://shindonga.donga.com/Print?cid=102048

そこでは全斗煥政権の所謂「第五共和国」と趙容弼、そして当時さかんだった民主化運動勢力との関係についても言及され、たいへん興味深い話が語られていました。民主化運動に従事した学生たちは「チングよ」(友よ)を愛唱していたそうです。歌っている趙容弼自身に全くそんな意図はなかったのですが、彼らは監獄に連行される友を思って歌うばかりか、そもそも「チングよ」が自分たちの境遇を歌った曲だと確信していた。それで趙容弼に対して、とても深いシンパシーを抱いていたそうです。
 この話はちょうど私が趙容弼を聴いていた時代と重なります。私はこの歌を青春歌謡の一種と受け止めた以外は何も詮索することなく、字義どおりに旧い友を懐かしむ歌として「チングよ」を聴いていました。それなのに、同じ時代に、自分と同じ世代の学生たちが、この歌の言葉に「監獄に連行される友」を投影していたとは、なんと新鮮な驚きだったことでしょうか。

 光州の傷を引きずり、民主化を求める闘いのさなかで友を亡くし、また多くの仲間たちを監獄に捕らわれた当時の学生たちは、「チングよ」の詩の中から、言葉のなかに埋められた言葉を掘り出そうとしたわけです。

 

*歌詞

1.夢は空の上でまどろみ 思い出は雲に乗って流れ

  友よ 面影はどこへ行ったの? 恋しい友よ

2.昔のことを思い出すたび 忘れてしまった情を探して

  友よ 夢で逢えるだろうか 静かに目を閉じるよ

 

悲しみも 喜びも 寂しさも 分かち合ったね

青雲の夢を抱き 明日を誓いあった 堅い約束はどこへ

 

3.1を繰り返し

 

1.꿈은 하늘에서 잠자고 추억은 구름 따라 흐르고
친구여 모습은 어딜 갔나 그리운 친구여

2.옛일 생각이 날 때마다 우리 잃어버린 정 찾아
친구여 꿈속에서 만날까 조용히 눈을 감네

 

슬픔도 기쁨도 외로움도 함께 했지
부푼 꿈을 안고 내일을 다짐하던 우리 굳센 약속 어디에

 

3.꿈은 하늘에서 잠자고 추억은 구름 따라 흐르고
친구여 모습은 어딜 갔나 그리운 친구여

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=fCTbT85876s


「漢江」(1983年)

「漢江」は1980年代半ば、たまたま屋台で購入した海賊版のカセットテープに入っていた一曲でした。漢江(ハンガン)はソウル中央部を流れる大河で、江南(カンナム)と呼ばれる南岸一帯に立ち並ぶ高層アパート群は1970年代の高度経済成長の象徴とされ、「漢江の奇跡」ともてはやされました。

私が最初に感銘した漢江にまつわる語りは、1983年春に初めて韓国を旅したとき、川べりの道路を走るバスの中で、年配の女性ガイドが語った朝鮮戦争の話でした。北朝鮮人民軍の南下を阻止するために韓国軍が漢江大橋を爆破させ、多くの避難民たちが巻き込まれて犠牲になったといいます。彼女はこの話を次のような言葉で締めくくりました。

「漢江はいにしえの昔より、このようにわが民族の苦難の歴史を抱き、見つめつづけてきたのでございます。」

 漢江を擬人化し、連綿と続く民族史のなかに位置づけてみせるガイドの語りが、その後も私の中に潜在していたせいかもしれません。「漢江」のメロディを耳にした瞬間、とてつもないスケール感に包まれたことを、今でもありありと思い出します。そして少しずつ内容が聞き取れるようになると、そこに込められた壮大で深遠な歴史観にまたしても圧倒されました。

「漢江」は趙容弼の作品の中で、今でもいちばん好きな楽曲です。「歴史(ヨクサ)」や「民族(ミンジョク)」といった韓国語の観念世界を、私はこの曲によって初めて感受したように思います。

※歌詞
一曲りして流れる悲しみ、二曲りして溢れる愛

1.美しい陽を浴びて水影をたたえ、夜には月光を浴びて悲しみを消した
億年の息吹に絡みつく歳月、億年の波はこの胸に打ち寄せる音、漢江は流れる

2.愛しい君(ニム)が行かれる道へと漕いで送り、恋しい思いよ、空っぽの船で揺れている
億年の息吹に絡みつく歳月、億年の波はこの胸に打ち寄せる愛、漢江は流れる
億年の波はこの胸に打ち寄せる愛、漢江は流れる

 

한굽이 돌아 흐르는 설움 두굽이 돌아 넘치는 사랑 워우워~

1.한아름 햇살받아 물그림 그려놓고 밤이면 달빛받아 설움을 지웠다오 
억년의 숨소리로 휘감기는 세월 억년의 물결은 여민가슴에 출렁이는 소리 한강은 흘러간다

2.고운님 가시는길 노저어 보내놓고 그리운 마음이야 빈배로 흔들리네 
억년의 숨소리로 휘감기는 세월 억년의 물결은 여민가슴에 출렁이는 사랑 한강은 흘러간다 
억년의 물결은 여민가슴에 출렁이는 사랑 한강은 흘러간다

 

https://www.youtube.com/watch?v=o74x2ZcWkIA&feature=share

 

漢江は以北(現・朝鮮民主主義人民共和国)の江原道通川郡を源とする北漢江に、江原道南部に発する南漢江が合流し、ソウルを貫通した後、さらに臨津江(イムジンガン)と合流して黄海へと注いでいます。前掲の歌詞にみるように、「漢江」は、まさに「分断」という俗世の出来事を凌駕した民族の歴史、無数の命をはぐくみ死を包み込んできた悠久の大河を歌っています。

この曲が発表されたのは「チングよ」と同年、1983年のことです。光州事件の惨劇からわずか3年、全斗煥政権による公安統治が強化され、運動勢力は地下に潜って雌伏の時期を過ごしていました。権力の追っ手を逃れた運動勢力は地下化、先鋭化が進み、80年代半ばに入り、やがて表出される反米民族主義の運動理念をひそかに鍛えつつあった頃です。もちろん歌の作り手にも歌い手にもそんな政治的意図はなかったにちがいありません。しかし、この歌を聴いた人々はどう受けとめただろうか、と思うのです。それほど「漢江」の歌詞には、隠喩的なイメージがまとわれているということです。

 

美しい陽を浴びて水影をたたえ、夜には月光を浴びて悲しみを消した
億年の息吹に絡みつく歳月、億年の波はこの胸に打ち寄せる音、漢江は流れる

 

 この詩に表れた漢江の悠久のイメージは、あのガイドが語った「わが民族の苦難の歴史を抱き、見つめつづけてきた」という言葉にも共振するのです。このわずかなフレーズから、漢江のたゆたう水面に朝鮮戦争がもたらした民族分断の悲劇と、その後の分断暴力が招いた(光州事件をはじめとする)理不尽な犠牲の数々を想起することは、十分に可能であったと思います。


愛しい君(ニム)が行かれる道へと漕いで送り、恋しい思いよ、空っぽの船で揺れている

 

「ニム」とは「君、あなた」などを指す二人称ですが、韓龍雲の詩「ニムの沈黙」や、光州事件の弔い歌「ニムのための行進曲」と同様、祖国をニムと見立てて、擬人化された「思慕する対象」への呼びかけとして読み解くこともできるでしょう。

愛しい君(ニム)とは誰だろうか、船を漕いでどこへ送ろうとするのか?

それは文字どおり、船に乗って去りゆく愛しい人との別離かもしれない。

あるいは「空っぽの船」とは、死霊祭を行なうシャーマンが死者の魂を乗せて極楽浄土へと送る、あの「船流し」の藁船のことかもしれない。だとすれば、愛しい君とは、この世から離別した死者をさすことになる。

また、ニムを擬人化された「祖国」と見立てるならば、それはそれで、1983年という暗雲たれこめる冬の時代の表象ともなりうるだろう。

ノンフィクション・ライターの野村進一は『コリアン世界の旅』で、歌に込められた在日コリアンの「シークレット・コード」ということを述べています。この伝でいえば、「漢江」の作品世界にも、そんなシークレット・コードが埋め込まれているのではないか…、そんな気がするのです。

 そういえば、これも奇妙な偶然ですが、民衆歌謡の歌い手たちがひそかに「노래 찾는 사람들」(歌を求める人々)というグループを結成したのも、1983年のことでした。

 歌を求める人々―――。

 なんとシンボリックな名づけでしょうか。

 言葉の紡ぎ手である詩人の和合亮一さんは「ある言葉が消えてしまった」と言い、消えた言葉を探し求めて、「言葉から言葉を掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか」と呼びかけました。

 しかし餓え渇く心で歌を、言葉を求めるのは、作り手や歌い手だけではありません。聴き手もまた耳元を流れる歌に向かい、「言葉から言葉を掘り出すにはどうすれば良いのでしょうか」と問いかけながら、歌の言葉のなかに隠された言葉を探し求めようとしたのです。

作り手・歌い手と聴き手とがそれぞれに歌を求めあう相互作用のなかで、言葉のなかに埋められた言葉が掘り起こされ、意味が紡がれて、歌は歌になっていったのではないだろうか。「チングよ」も「漢江」もそんな歌だったと思えるのです。