亡き劇作家が「クミの五月」に込めたもの(1)〜5・18は終わらない〜

死者の「肉声」を甦らせる

 昨年春、職場のメールボックスに津川泉という見知らぬ人物から書籍小包が届いていました。送られてきたのは『韓国現代戯曲集Ⅷ』(日韓演劇交流センター刊)という書物で、津川氏はそこに収められた「クミの五月」の訳者でした。

日韓演劇交流センターのHPで、この作品は次のように紹介されています。

 

1980年に起きた光州事件を描いた初の戯曲であり、1980年代の民俗劇(マダン劇)運動の記念碑的作品でもある。女子高生クミの視線で描かれる光州事件。軍の弾圧に抵抗し最後まで道庁に立てこもって殺された兄。事件後、政府は遺族たちを要注意人物として弾圧する。貧しいが平凡で平和な家庭だったクミの家族は、兄の死後、真実解明と民主化運動に参加するようになる。

ある日、警察に連行された母親を思い、光州事件を回想するクミ。

写実的な描写とマダン劇的なデフォルメや集団的演技が取り入れられた80年代民俗劇の様式で書かれている。

 

 戯曲「クミの五月」には、光州抗争当時、全南大2年生だった李正然(イ・ジョンヨン)という実在のモデルがおり、彼の死後に妹クミが発表した手記を原作としています。一方、作者の朴暁善(パク・ヒョソン)氏は、芸術班として市民軍の文化広報活動を担いますが、5月27日未明に空挺部隊が投入された直後に、死線をかいくぐって道庁からの脱出に成功します。それから2年間の潜伏生活の後に検挙され、懲役2年6カ月(執行猶予4年)の実刑を受けました。

 つまりパク氏はイ・ジョンヨンと最期まで闘いをともにしながら、道庁での最終決戦でその生死を分けたのでした。当然、生き残った者として心の重荷があったはずです。また生き残った者として物言わぬ死者たちに成り代わり、この事件をありのままの記憶として再現させるべく、自らの作品へと昇華させようと煩悶したことでしょう。「クミの五月」の誕生は抗争から8年の歳月をへた1988年のことでした。(*写真はイ・ジョンヨン)

 津川氏は訳者解説で、「この作者の胸底に溢れかえった―時代を撃つアクチュアリティーと、仮面劇やマダン劇で培われた民衆の抵抗精神―二つのマグマが民族的リアリズムとなって結実したのが本作である」と述べています。 

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 私は1996年5月に光州の劇団トバギで「クミの五月」の無料公演を観劇し、98年7月にはパク・ヒョソン氏にインタビューをしています。その時の彼の語りを『光州事件で読む現代韓国』(平凡社、2000年。*増補版:2010年)に記したのですが、津川氏は解説の中で「作者朴暁善の肉声も伝えている」として本書を引用してくれています。パク氏は私との面談からわずか2か月後、44歳の若さで亡くなりました。インタビューは肝臓がんで入院中の病院から外出許可を得て、市内のコーヒーショップで行われたのです。そう考えると、私は彼の「肉声」の最後の聞き手になったのかもしれません。

 今年の3月、「クミの五月」が日本の俳優たちによるドラマ・リーディングとして世田谷シアタートラムで上演されることになりました。

 病身のパク氏にゆうに1時間を超えて話を聞いたはずなのに、私が本の中で取り上げた彼の言葉はほんのわずかにすぎません。これはいわば、執筆当時の私が本で描こうとする筋書きに沿って語り手の話を編集した結果ともいえます。リーディング上演に寄せる一文を書こうとして、ふと「作者朴暁善の肉声も伝えている」という津川氏の言葉が頭をよぎりました。

 そこで今一度、それこそ文字通り「作者朴暁善の肉声」に聴いてみようと、私は20年前のカセットテープと文字起こしの原稿を引っ張り出したのでした。

 以下に、その文章をアップしておきます。

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「クミの五月」ドラマ・リーディングに寄せて

 私がパク・ヒョソン氏と初めて会ったのは96年5月のことです。94年に金泳三大統領が光州聖域化宣言をし、95年に国会で「5・18特別法」が可決されて公訴時効が廃止され、この「5・18特別法」により、97年4月に全斗煥盧泰愚実刑判決を受けました。また97年には5月18日が国家記念日に制定され、光州抗争の犠牲者たちが埋葬された望月洞墓地が国立5・18墓地に昇格されました。私が朴氏と面識を得たのは、ちょうど5・18が名誉復権される、その過渡期にあたる時期の、5月のほぼ一か月間を通して光州各所で催される記念行事でのさなかでした。道庁界隈をうろうろしながら、たまたま目に留まったのが劇団トバギの無料公演のポスターでした。

 私は演劇について、ひいては芸術全般についてまるで素養のない人間で、演劇鑑賞は実はこの劇団トバギによる「クミの五月」が初めてでした。しかしそれだけに、文字や言葉では表現されえない5・18という出来事が、感覚的に胸にずしりと迫ってきました。気が付くと、俳優たち、周囲の観客たちとともに、笑いや涙の渦の中に巻き込まれていました。

 公演終了後、かつて味わったことのないその不思議な感覚の余韻を引きずったまま、私はこの作品を作った人に会ってみたいと思い、衝動的に事務室のドアを叩いていました。これが朴氏との初めての対面でした。ごく簡単な挨拶のあと、「クミの五月」の原作となった遺族たちの証言録と数冊の本をお借りして、コピーさせていただきました。

 二度目に会ったのは98年7月です。『光州事件で読む現代韓国』という本を書き下ろすために、ソウルや光州でさまざまな世代と立場の人たちに会い、インタビューを重ねていました。当初、朴氏は面談に乗り気ではなかったそうですが、1時間程度なら、という条件で会ってくれました。肝臓の病気で入院中の病院から外出許可をもらってきた、と言っていましたが、割と元気そうに見えたので、病気がそれほど重篤とは想像もしないまま聞き取りを終えました。

 そこで語られた言葉の中で、いくつか心に残るフレーズを本の中で紹介しました。

 その一つが光州抗争という出来事のはらむ両義性を、「人間らしさ」の表出として指摘したくだりです。

 

「5・18は人間にとって歴史的事件だった。なぜか?5・18とは、人間がいちばん人間らしい姿をさらけ出した時間だったからです。その時、人々は生と死、笑いと泣き、嘘と真実、人間性と野蛮性・・・そういう相矛盾した局面をまるごと現わしていたのです。」

 

 今回、研究室の資料の山の中からインタビューのテープと文字起こし原稿を掘り起こし、もう一度、パク氏の言葉を振り返ってみました。すると、改めて唸らされたいくつもの箇所が見つかりました。これは今、朴槿恵大統領を罷免に追い込み文在寅政権を誕生させた韓国のろうそくデモの顛末を踏まえつつ、また現今の日本の政治状況に直面しながら読み返すことで、俄然鋭さと力強さをもって蘇る預言者のごとき言葉です。

f:id:gwangju:20180617212013p:plain パク氏は次のように語り出します。

 

「事件の中には人間の生と死がある。人間の意志、人間の姿ではない、野蛮人の姿がある。ある外国人の学者が『小隊長クラス以上は全員処罰されるべきだ』と言ったが、私はそれに同意する。そのプロセスを踏まなければ浄化された世界は作れないし、民族の精気をきちんと押し広めることもできない。普通の人たちは許せ、赦免しろという。しかし、それは軍部政治が犯した過ちだ。光州市民に対し『全斗煥を赦免しますか、しませんか?』とただの一度も尋ねることなく赦免した。金大中氏は5・18を知らない。彼は5・18を知る人ではない。」

 

 これは97年12月に大統領選で勝利した金大中が、すぐさま全斗煥盧泰愚を特赦したことに対する痛烈な批判です。

 続いて彼は、「89年にソウルでの『クミの五月』の公演後、劇団員たちが金大中と会って酒席をともにしたが、彼は5・18のことなど全然わかっちゃいなかったんだ」と吐露したあと、次のように語ります。

 

「5・18を経験しなかった人には5・18はわからない。ただ人の話を聞いて、後から涙を流すだけだ。同じ光州運動圏にいても5月17日に予備拘束された人たちにもわからない。その実態を知らない。ビデオでもわからない。当時の雰囲気、大衆たちの熱い熱気、喊声、緊張感、そして街の隅々の匂いも感じられない。5・18は一つの巨大な戦争であり、巨大なドラマだった。その中では人間のあらゆる姿が赤裸々に現わされていた。

 教授をしているある先輩との論争で、彼は言った。『自国の軍人は市民を銃で撃ち殺してもよいが、かといって、なぜ撃たれた市民が軍人に銃をもって対抗しえようか』と。これは知識人の虚偽だ。恐ろしいことだ。そうしたことが5・18の中には全て伏在する。

 今、5・18には問題が多い、遺族会、負傷者会・・・全部がそうとは言わないが、中には自分たちの利権や私利私欲、戦後の傷痍軍人たちのような、そういう現象がたくさん現われている。今でも5・18の一番の核心である“5月精神”とは何かを知らない者たちがやらかすことだ。

 『5・18は終わらない』というのは、そういった人々とも闘い続けなくてはならない、という問題だ。5月といえば、恥と贖罪だ。生き残った者たちの贖罪を感じるというのは多くが知識人たちだ。しかし5・18に対して恥ずかしさだ、贖罪だ、と言う人たちは、結局、今でも、5・18の基本的な精神を広く伝播させるとか、さもなければ学術的な研究や探究をするとか、そういったことをやろうとしない者たちがこんなことを言う。(略)

 今なすべきことは“5月精神”とは何かを、18年が過ぎた今のこの現実の中でも絶えず探し求め、先ほど述べたような状況に対抗して闘い続けるべきだ。『国民の政府』になってからも、なんだ、何も変わらいままじゃないか。気分が悪い。そういうことと闘うべきだ。」

 

 パク氏が指摘する「知識人の虚偽」、つまり欺瞞性は、金大中による特赦が象徴するように、普遍的な赦しの問題として韓国社会の中で語られてきました。その典型例としてパク氏は、青松監護所(*青松は慶尚北道にある都市)という医療刑務所に、5・18の時に空挺部隊だった元軍人たちが看守として大量に特別採用されていたという話をしてくれました。そこに収容された服役者の多くは看守による「非人間的な待遇」、つまり虐待で気がふれてしまう、というのです。

 パク氏は被害者と加害者の関係について次のように指摘します。

 

「加害者と被害者がいて、『加害者もある意味では被害者ではないか』などと言う知識人がいるが、それは観念的には正しいけれども、『小隊長クラス以上の処罰問題』とは異なった次元の問題だ。いまだにそういう連中が、人間の野蛮性の具象のごとき連中が、5・18への罪責感をもつどころか、青松監護所の看守として生き延びている。そういった現実との闘いが必要なのだ。」

 

 5・18をめぐる談論を蝕んでいるのは、パク氏と論争した先輩が主張する軍隊など国家権力への服従といった儒教的道徳性、あるいは「加害者もある意味で被害者」とする温情主義や、金大中による全斗煥盧泰愚に対する特赦が象徴するキリスト教的「赦し」、また当時、巷間で語られていた、いかに罪人といえども年長者に長期の獄中生活を強いるのは不徳である、とするいかにも儒教道徳的な温情など、パク氏の言葉を借りれば、どれもが「知識人の虚偽」、すなわち欺瞞にあります。さらにそこに各々の利権や私利私欲が絡まることで、闘いは分断されるのです。そして、このような過ちを犯すのは決まって5・18を経験していない、観念だけで5・18をとらえている人々だとも看破しています。こうしたあらゆる現実に対して闘いを挑み続けるべきだと、パク氏は主張するのです。

 国民は権力に忍従すべきだとか、「加害者もある意味で被害者」だからと加害責任からの免責を企てたり、権力者の罪悪を見逃して結果的に「赦し」を与える温情主義的な態度、利権や私利私欲によって運動が分断される、本当の戦争を知らない者に限って観念でこれを云々したがるなどの現象は、まるでこの国のどこかでも見たり聞いたりしている話ではないでしょうか。「5・18は終わらない」をたとえば「日本帝国主義は終わらない」という言葉に置き換えれば、パク氏の語りはそのまま今の、私たち日本の市民にも投げかけられていると思わざるをえません。

 インタビューからわずか2か月後にパク・ヒョソン氏が亡くなったことを、私は『光州事件で読む現代韓国』が刊行された2000年になって初めて知りました。5月、国立5・18墓地の遺影奉安殿でその遺影を見つけた時のショックは今も忘れられません。パク氏が病身をおして、どんな気持ちで私の拙いインタビューに応じてくれたのかはもはや知る由もありませんが、とりあえず韓国の人々は彼の言葉に呼応した粘り強いろうそくデモにより、まさに「浄化された世界」のとば口にまでこぎつけました。

 そのようなわけで、私はむしろ、パク氏の作品とそこに込められた思い、その肉声が、今、ここで、「クミの五月」のリーディング上演を介して再現されたことの意味を、自らに問いながら、日本人として主体的に受け止めたいと願うものです。(続く)

映画「光州5・18」のメッセージ

1980年5月の光州民主化抗争を扱った韓国映画「タクシー運転手」が人気ですね。 ちょうど10年前に光州5・18 - Wikipediaが日本で公開されました。どちらも主人公はタクシー運転手ですが、「タクシー運転手」の主人公は外側から光州抗争を経験し、「光州5・18」の主人公は光州の内側にいて、最終的に銃をとり、撃ち殺される。 韓国でこれらの映画を鑑賞した人によれば、「光州5・18」(原題「華麗なる休暇」)ではすすり泣く人たちが多かったのに対し、「タクシー運転手」では割合にあっさりとした反応だったそうです。これは10年間という時の隔たりが、人々の出来事との向き合い方に違いを生じさせているせいかもしれませんが、私は「光州5・18」の場合、韓国の人々に遍在する悲哀感情の描写が随所にちりばめられているからと考えています。「タクシー運転手」の映画批評を行なう前に、まずはこのことについて述べておきたいと思います。 「光州5・18」の日本公開にあたり、配給元の角川映画で仕事をさせていただきました。劇場用パンフに解説文を寄せたほか、公式サイト用にもう少し詳しい解説を書き下ろしました。現在、「光州5・18」公式サイトは残存しているものの、私の文章はすでに削除されているので、ここにそのまま再掲します。

 

映画「光州5・18」のメッセージ

タブーを超えた映画

 韓国は変わったのだ。旧い時代から新しい時代への変わり目に、これまでタブーに緊縛されていた「光州」がようやく解き放たれてゆく・・・試写室で初めて映画をみたとき、そんな新鮮な感慨に打たれた。同時に「71年、大邱生まれ」というキム・ジフン監督のプロフィールにおおいに興味をそそられた。光州事件への贖罪意識に動機づけられて「光州」を語ってきたのは主に60年代生まれであり、しかも大邱という町は韓国でもっとも保守的で、光州とは深刻な地域葛藤を抱え込んできた。私は90年代初頭の2年間を大邱で過ごしたが、光州・全羅道への嫌悪感や差別意識は人びとの言動の端々から垣間見えたし、逆に大邱慶尚道の人びともあちらへ行けば同様の扱いを受けたらしい。世代的にも地域的にも「光州」とはちょっと距離感のある生まれなればこそ、このような正面切って光州事件を描く映画が撮れたのではないかと思ったのだ。

 私がソウルや大邱で暮らした80~90年代の軍事政権時代、光州事件には二重の意味でタブーがあった。ひとつは事件そのものを“なかったこと”としてふるまうこと、もうひとつは事件をめぐるいかなる聖犯も許されないこと、である。前者は為政者が、後者は三八六世代(90年代に喧伝された「30歳代、80年代に大学生活を送った、60年代生まれ」の世代を意味する謂い)を中心とする運動家たちが張り巡らした、対極的なタブーであった。「光州」という地名すら声を潜めて語らなくてはならなかった80年代、あえて声高に「光州」を語った三八六世代は「悲惨さ」「崇高さ」といった聖なる語りに光州事件を封じ込め、皮肉にもそこにひとつの英雄史観を築いてきた。だが私が出会った市民軍の生き残りたちは、これをパターナリズムステロタイプだと切って捨てた。彼らはともに闘い死んでいった、その人間臭やクセを知り尽くした仲間たちが英雄扱いされることに少なからず違和感を抱いていたようだった。人間には美しい部分もあれば醜い部分もある、泣きもあれば笑いもある、崇高さもあれば残虐さもある・・・。そういう当たり前の人間の「真実」から目を背け、蓋をしてきたのが、従来の光州事件にまつわる神話だった。

無数の「花開けなかった命」を惜しんで

 「光州5・18」がこれまでの光州モノと一線を画すのは、インボンやヨンデといった上品とはいえない道化的なキャラクター、あるいは戒厳軍にからかわれた末に殴殺される痴れ者の青年などを登場させることで、光州事件で犠牲となったのは、なにも崇高な主義信条に突き動かされた人びとばかりではなかった事実を描き、従来のタブーを破ってその美談化を否定した点にあると思う。実際、いまや「英霊」に祀られている死者の中には、厠で用便中に流れ弾に当たって死んだ老婆や、デモを見物しようと仕事場を抜けて屋上に出たところを被弾した野次馬の青年労働者など、かなり間の抜けた死に方をした人たちもいる。しかしそれでも、死に大きい/小さいはない。誰にも日常のささやかな生活があり、ささやかな愛情をはぐくんできた家族がいたはずである。これから愛を紡ごうとしていた者たちもいたであろう。ミヌとシネの10日間が物語の主軸として描かれるのは、それが「あの時、あの場に、いたかもしれない人びと」であったからだと思う。そういう意味では、これは“お涙頂戴”のメロドラマとも異なるのだ。

 未婚の若者が早すぎる死を遂げると、韓国の人びとには「花のような命を失った」とか「花開けなかった命」といった言い回しで、ことさらにその死を哀惜する風がある。また無念をのんで逝った者は、死んでも「両目を閉じられない」という表現もある。韓国ではあまりに有名な光州事件への弔い歌「五月のうた」に、次のようなフレーズがある。

 

望月洞(犠牲者たちが葬られた場所)には見開かれた瞳たち/数千の血走った目たちが 絡みついている

 

 しかし映画では「暴徒」と罵られた末に銃弾を浴びせられたミヌだけではなく、シネが撃った若い兵士もその目を見開いたまま事切れる。私はそのシーンに「花開けなかった命」への愛惜は敵も味方も関係ない、戒厳軍の兵士とて徴用されただけの貧しき同族なのだ、という監督の優しいメッセージをみたような思いがした。学生運動に端を発し、近郊農村出身の青年労働者たちが市民軍の中核を担った光州事件では、無数の名もなき「花開けなかった命」が散っていったにちがいない。それを暗示するのが、最後の婚礼写真の幻影である。背後に流れる「ニムのための行進曲」は、82年2月、市民軍のスポークスマンをつとめたユン・サンウォンなる人物の死後結婚式が行なわれたとき、初めて世に出た光州事件への弔い歌であった。

 「光州5・18」の斬新さは、大所高所からの歴史、英雄史観からの歴史をイデオロギッシュに描くのではなく、無数の、そして無名の「花開けなかった命」を惜しむ心が全篇を貫いている点にある。これは「光州」への贖罪に生きようとするあまり、冒さざるべき神話としてこれを描かずにはいられない、生真面目な三八六世代にはどうしてもできない芸当であったと思う。

史実とフィクションのはざまで

 後日、角川映画からキム監督と同席する機会をいただいた。パンフレットに載っている黒いサングラス姿からは想像もつかない柔らかな物腰の人物だった。失礼ながら、とてもアン・ソンギなどの大物俳優を陣頭指揮した人物のようには見えなかった。

 彼はまず映画製作の理由を、「光州事件のことを何も知らなかった自分を恥じ、死者たちに申し訳ない思いをずっと抱いてきたから」と語ったが、これは三八六世代とも共通するメンタリティである。しかし三八六世代と決定的に異なっていたのは、彼自身が「まるでアジュモニ(おばちゃん)みたいでしょ?」と自分を評したような身構えのなさ、肩の力の適度な抜け具合であった。「まあ、いろんな批判はありますけどね」と前置きしながら、会話の中で何度となく繰り返された「ピョ~ナゲ、ピョ~ナゲ」(気を楽に、楽に)という言葉を聞いたとき、私にはこの映画の意味がすとんと腑に落ちたような気がしたのである。彼は光州で起こった実際の惨劇については、「その気になれば、今ならいくらだって資料は見られますから」とさらりと言ってのけた。彼が撮りたかったのはドキュメンタリーではなく、そこに存在したであろう無数の人間たちのドラマであり、国境や言葉を超えて共振できる人間という存在の「真実」を浮かび上がらせたかったのではないか・・・、そんなふうに感じ取れた。

 監督が言う「いろんな批判」を大雑把に括ってしまうと、映画の展開や描写が「史実と異なる点がある」ということになるだろうか。

 ひとつは事件にまつわる史実が「戒厳軍=悪玉、市民軍=善玉」といった二元的図式で歪曲されているという批判である。たとえば光州駅前では実弾射撃がなされたものの、道庁前で愛国歌をうたった直後の市民に向けて、まるでだまし討ちのように一斉射撃がなされたという事実はない。当時、現場にいあわせた東亜日報のキム・ヨンテク記者(当時)によれば、道庁舎から流れる愛国歌のメロディに合わせて、「このときの発砲は事前警告のように、すべて空中に向けて発射された」という。突然、物々しい銃声が鳴り響いたのは、それからしばらく後のことだった。大通りの真ん中に出て来て太極旗を振り、スローガンを叫んでいた5、6人の若者たちが、「そのまま倒れ込んだ。頭、胸と足から真っ赤な血が噴き出した」という。また市民軍の武器は道庁地下からではなく、バスやタクシーの運転手たちがデモに加わったことで機動力が確保され、郊外の武器庫から奪取された。市民が放送局や税務署に放火した事実も、映画では描かれなかった。加えて、市民軍を統率した予備役大佐(アン・ソンギ扮するパク・フンス)なる人物も実在しない。実際に市民軍の中核をなしたのは青年労働者たちと、夜学活動を通じて彼らに社会意識を植え付けてきた一部の学生運動家たちであり、市民軍統治下の6日間はコミューンの形態をなしていた。

 一方、光州内部では「表現が手ぬるい」という批判もあったそうだ。この指摘にも私は首肯できる。映画の殺戮シーンはあの程度でも日本の観客に衝撃を与えたらしいが、現実はもっと凄惨だった。資料集に掲載された正視に耐えない夥しい遺体の写真(だからチャンスの母は視覚障害者でよかったのだと、私は思っている)、備忘録に記された犠牲者たちの死の経緯と遺体状況、たとえば「左側の乳房が帯剣で突かれ、右の胸と顎、それに骨盤と大腿部をM16銃弾が貫通していた」、「頭に被弾して即死した妊婦の腹の上を8ヶ月の胎児がピクピクと波打っていたが、やがてそれも動かなくなった」とか、「M16の銃弾で蜂の巣のように撃たれたうえ軍靴で踏みつけられたので、眼球が飛び出るなど見るも無残な遺体だった」などの記述を思い起こすと、私は今でも戦慄が走るほどだ。だが今ここにあげた犠牲者たちは、すでに光州では、また運動家たちの間では、その悲惨な死にざまとともに名前を覚えられた、ある意味「有名人」であり「英雄」である。それに対し監督が描きたかったのは、このような記憶からさえも取りこぼされた無名の人びと、ささやかな日常生活から引きずり出され、極限状態に投げ込まれ、闘い、そして死んでいった小市民たちの姿だったのではないだろうか。

エンターテイメントとして「光州5・18」を見つめること

 つまり光州事件をめぐる大枠といくつかのシーン(父の遺影を抱く少年の姿、道庁屋上に掲げられた弔旗など)を除けば、この映画は限りなくフィクションに近い。だが、それが一体何だというのか。事件の推移に関する仔細な事実関係も、いかに殺されたかというリアリティに肉迫した殺戮シーンも、映画の主題を際立たせようとすれば単なるノイズにしかならないだろう。情報統制の厳しかった時代ならともかく、監督の言うように「その気になれば、いくらだって資料は見られる」のが現代の成熟した韓国社会の恩典なのだ。いずれにせよ、光州事件にまつわる「事実関係」や「リアリティ」を重視する立場からの批判は、この映画にとって的外れな気がしてならない。

 試写会では号泣する人たちが多かったと聞くが、それは「光州5・18」がエンターテイメントとして成功した証であろう。監督がこの映画に託したであろう思い、「世界は知らなかった、光州で散った愛の数を」というコピーに込められた深い悲哀の意味を慮れば、極端な話、光州事件に対する予備知識が皆無でも、彼が伝えたかったメッセージはみる者たちに十分に届いているのである。「ピョ~ナゲ、ピョ~ナゲ」という優しげな監督の口調を思い起こしながら、そんなことを考えた。ただし、そこには格別に「花開けなかった命」を惜しむ、ほぼ土俗的レベルの悲哀の念が潜んでいることを、これから「光州5・18」をみようという人たちにぜひとも知ってもらいたくて、私は今、この記事を書いている。この映画は単なるメロドラマで終わってほしくないからだ。

 加えて、韓国は現在も国民皆兵制の分断国家であり、たいていの成人男性は銃の扱いに手馴れている点を忘れずに、この映画をみてほしい。彼らは除隊後も、有事に備えて年に一度、一週間程度、思想教育および射撃などの実地訓練を受けることを義務づけられており、これを「予備役」と呼ぶのである(パク・フンスの「予備役大佐」という肩書きは、ここから来ている)。「主人公たちが市民軍として銃を手にしたとたん、急に英雄みたいになることに違和感があった」という趣旨の感想をネットで読んだが、恋愛は中学生レベルのミヌも、チンピラのヨンデも、お調子者のインボンも、誰もが銃を持てばあの程度の市街戦をやってのけるのが普通の韓国男性である、ということだ。つまりアメリカのような銃社会ではなくても、韓国社会には初めからアクション映画というもうひとつのエンターテイメントが成立しうる素地があったのである。

 ただ一介の韓国研究者としては、日本での「光州5・18」公開に先立ち、やはり光州事件とその背後にある韓国の社会や文化をある程度知っておいた方がより堪能できますよ、ということだけは言っておきたい。概略はすでにパンフレットに書いておいたので、ぜひご一読ください。

それが、問題なのだ!

はじめまして。

 1970~80年代の韓国民主化運動を研究してきましたが、気がつけば、私が暮らし、体験した80~90年代の韓国もまた急速に「歴史化」されていくのを実感するこの頃。それならば、そうした自身の来し方も「歴史化」の対象として、いわば一民族誌として書き留めておきたいと考え、このブログを始めることにしました。

 

私は韓国のシャーマニズム研究を振り出しに、93年からは70年代以降の民主化運動史を研究してきました。シャーマニズムから民主化運動へという突飛で華麗なる(?)転身には二つのきっかけがあります。

 

一つは盧泰愚政権末期の91年、いわゆる「五月事態」を間近に見たこと。同年4月26日、デモに参加していた姜慶大という学生が戦闘警察に殴打され、亡くなる事件がありました。その後、約一か月にわたり、苛烈化する公安統治に反対し、姜君の死に抗議する焼身自殺が各地で続いたのです。これを当局は「五月事態」と呼びました。当時、私は大邱にある大学で日本語教員をしていました。

 

もう一つは崔吉城先生の『韓国人의恨』という本を訳したこと(➡『恨の人類学』平河出版社、1994年)。その中に次のような一文がありました。「朴鍾哲拷問事件などは宗教的とは言えないが、冤魂の恐ろしさという点を実証してくれた一種の社会劇であったと言える。いくら警察や国家権力が恐ろしいとは言っても、一個人の冤魂を通じて民衆大多数の恨が投射されるとき、その怨恨は極大化し、ついには世俗の権力を凌駕するに至るのである。」(432頁)

 

これは大きな衝撃でした。シャーマニズム研究から、こうした政治的な事象を解き明かすこともできるのか、と。以来、これがそのまま私の研究テーマとなりました。秋に日本公開が決まっている韓国映画「1987」

1987arutatakai-movie.com

が扱っている出来事です。

 

軍事政権の終焉を待ち、93年から、朴鍾哲や、拷問に反対する運動のさなかで催涙弾に撃たれて亡くなった李韓烈といった「烈士」の研究に取り掛かりました。そして97年に、博士論文を書籍化した『烈士の誕生-韓国の民衆運動における「恨」の力学』を刊行。

 

ところで、この本についてはAmazonで一件のレビューがついています。レビュアーは☆5つをつけてくれているので、ありがたく思う。評価しつつ多少の苦言も呈されているが、それはそれでありがたいと思っている。ただ一か所だけ、著者として、どうしても譲れない不満があります。

 

以下は、レビューの冒頭です。

「出版から10年、ということは研究自体は十数年前に進められたものである。それ自体はなんら問題となるものではないが、いま読み返してみると、この本が取り上げている1970年代・1980年代はともかくとして、「現在」としての1990年代が、韓国においていかに今は昔と遠ざかってしまっているか、がひしひしと実感できる。「烈士」の最初のモデルとなった全泰壹、最終的には焼身自殺にまで至ったそのライフヒストリーに共感できる環境は、今の韓国にはもはやない。(彼が劣悪な環境で働いていた平和市場前を流れる現在の清渓川の透明な水を、当時の誰が想像できただろうか。)」

 

これは端的にいって、本書が取り上げた70~80年代はともかく、本書にとっての「現在」である90年代ですら、(レビューが投稿された2007年時点で)すでに「歴史化」の対象になっている、という指摘です。これには大いに首肯します。 しかし私が引っかかったのは、「出版から10年、ということは研究自体は十数年前に進められたものである」という冒頭の一文に続く、次のフレーズでした。

 

「それ自体はなんら問題となるものではないが、」

 

著者の経験からすれば、93年から進めてきたこの研究は、おおいに「問題となるもの」でした。その間に味わった恐怖や不快感、落胆の数々は、残念ながら本の字面には表われません。それは読み手には見えない研究の舞台裏です。

 

評者は「平和市場前を流れる現在の清渓川の透明な水」に象徴される開明的で洗練された韓国像しか見ていないし、90年代をすでに全泰壹の境遇には共感できない別世界の時代として捉えているようでもある。たしかに90年代をより現在に引き寄せて見れば、民主化文民政権、金大中盧武鉉、日本文化開放、韓流、ワールドカップ共催といった事柄に 象徴されるように、それはさも明るくて清新な民主政治の時代として映るでしょう。

 

でも実際はどうなのか?残念ながら、90年代に入ると、韓国の人々も「目を背けたい過去」として70~80年代の苛烈な民主化運動の記憶に蓋をするようになりました。ましてや、日本人の読み手に90年代韓国の陰の部分など見えるべくもありません。私が時おりFacebookなどで書き散らしてきた80~90年代のエピソードは、実はそうして目隠しされてきた出来事や人々にまつわる記憶なのです。

 

このブログは、「それ自体はなんら問題となるものではないが」といって、素通りされ、跨ぎ越されようする大文字の歴史と歴史の狭間に切れ目を入れ、そのあわいに生きられた経験の多様な真実を、その「余白」からの声を、思い起こせるかぎり書き残しておくために始めました。

 

そして、大きな声で言いたい。

それが、問題なのだ!

もだ(黙)して、聴け、「余白」の声に と。