それが、問題なのだ!
はじめまして。
1970~80年代の韓国民主化運動を研究してきましたが、気がつけば、私が暮らし、体験した80~90年代の韓国もまた急速に「歴史化」されていくのを実感するこの頃。それならば、そうした自身の来し方も「歴史化」の対象として、いわば一民族誌として書き留めておきたいと考え、このブログを始めることにしました。
私は韓国のシャーマニズム研究を振り出しに、93年からは70年代以降の民主化運動史を研究してきました。シャーマニズムから民主化運動へという突飛で華麗なる(?)転身には二つのきっかけがあります。
一つは盧泰愚政権末期の91年、いわゆる「五月事態」を間近に見たこと。同年4月26日、デモに参加していた姜慶大という学生が戦闘警察に殴打され、亡くなる事件がありました。その後、約一か月にわたり、苛烈化する公安統治に反対し、姜君の死に抗議する焼身自殺が各地で続いたのです。これを当局は「五月事態」と呼びました。当時、私は大邱にある大学で日本語教員をしていました。
もう一つは崔吉城先生の『韓国人의恨』という本を訳したこと(➡『恨の人類学』平河出版社、1994年)。その中に次のような一文がありました。「朴鍾哲拷問事件などは宗教的とは言えないが、冤魂の恐ろしさという点を実証してくれた一種の社会劇であったと言える。いくら警察や国家権力が恐ろしいとは言っても、一個人の冤魂を通じて民衆大多数の恨が投射されるとき、その怨恨は極大化し、ついには世俗の権力を凌駕するに至るのである。」(432頁)
これは大きな衝撃でした。シャーマニズム研究から、こうした政治的な事象を解き明かすこともできるのか、と。以来、これがそのまま私の研究テーマとなりました。秋に日本公開が決まっている韓国映画「1987」
が扱っている出来事です。
軍事政権の終焉を待ち、93年から、朴鍾哲や、拷問に反対する運動のさなかで催涙弾に撃たれて亡くなった李韓烈といった「烈士」の研究に取り掛かりました。そして97年に、博士論文を書籍化した『烈士の誕生-韓国の民衆運動における「恨」の力学』を刊行。
ところで、この本についてはAmazonで一件のレビューがついています。レビュアーは☆5つをつけてくれているので、ありがたく思う。評価しつつ多少の苦言も呈されているが、それはそれでありがたいと思っている。ただ一か所だけ、著者として、どうしても譲れない不満があります。
以下は、レビューの冒頭です。
「出版から10年、ということは研究自体は十数年前に進められたものである。それ自体はなんら問題となるものではないが、いま読み返してみると、この本が取り上げている1970年代・1980年代はともかくとして、「現在」としての1990年代が、韓国においていかに今は昔と遠ざかってしまっているか、がひしひしと実感できる。「烈士」の最初のモデルとなった全泰壹、最終的には焼身自殺にまで至ったそのライフヒストリーに共感できる環境は、今の韓国にはもはやない。(彼が劣悪な環境で働いていた平和市場前を流れる現在の清渓川の透明な水を、当時の誰が想像できただろうか。)」
これは端的にいって、本書が取り上げた70~80年代はともかく、本書にとっての「現在」である90年代ですら、(レビューが投稿された2007年時点で)すでに「歴史化」の対象になっている、という指摘です。これには大いに首肯します。 しかし私が引っかかったのは、「出版から10年、ということは研究自体は十数年前に進められたものである」という冒頭の一文に続く、次のフレーズでした。
「それ自体はなんら問題となるものではないが、」
著者の経験からすれば、93年から進めてきたこの研究は、おおいに「問題となるもの」でした。その間に味わった恐怖や不快感、落胆の数々は、残念ながら本の字面には表われません。それは読み手には見えない研究の舞台裏です。
評者は「平和市場前を流れる現在の清渓川の透明な水」に象徴される開明的で洗練された韓国像しか見ていないし、90年代をすでに全泰壹の境遇には共感できない別世界の時代として捉えているようでもある。たしかに90年代をより現在に引き寄せて見れば、民主化、文民政権、金大中・盧武鉉、日本文化開放、韓流、ワールドカップ共催といった事柄に 象徴されるように、それはさも明るくて清新な民主政治の時代として映るでしょう。
でも実際はどうなのか?残念ながら、90年代に入ると、韓国の人々も「目を背けたい過去」として70~80年代の苛烈な民主化運動の記憶に蓋をするようになりました。ましてや、日本人の読み手に90年代韓国の陰の部分など見えるべくもありません。私が時おりFacebookなどで書き散らしてきた80~90年代のエピソードは、実はそうして目隠しされてきた出来事や人々にまつわる記憶なのです。
このブログは、「それ自体はなんら問題となるものではないが」といって、素通りされ、跨ぎ越されようする大文字の歴史と歴史の狭間に切れ目を入れ、そのあわいに生きられた経験の多様な真実を、その「余白」からの声を、思い起こせるかぎり書き残しておくために始めました。
そして、大きな声で言いたい。
それが、問題なのだ!
もだ(黙)して、聴け、「余白」の声に と。