亡き劇作家が「クミの五月」に込めたもの(4)〜5・18は終わらない〜

「犠牲者たちの死を無駄に盗んだ」

 多くの人たちはあらかた忘れてしまっているかもしれませんが、先月12日に放映された「アナザーストーリーズ」光州事件の回について、私にはまだまだ言い足りないことがあります。なので、前々回から前回、そして今回にまで引き継いで小文を綴っておこうと思います(我ながら、しつこいようだが)。

 ここで取り上げるポイントは、1980年の光州抗争から、いきなり87年の6月抗争へと飛躍する牽強付会の展開について。歴史を粗忽に扱うこと、まだ健在の当事者たちの感情や立場を微塵も深慮していないことなど、雑で乱暴な作りと感じました。特に制作者がNHKであることに、もう少し丁寧な作りをしてほしかったという不快感を覚えたのです。

 6月抗争のきっかけを作った延世大生・李韓烈の死が、どういう出来事の積み重ねの上に起こったことなのか、という80年から87年にかけての韓国現代史がきれいさっぱり省略されています。見る人が見れば、きっとはらわたが煮えくり返るにちがいない。一体全体、わが子の死は無駄だったというのか!と、もし日本語がわかる親の誰かがこの放送を目にしたら地団太を踏むような、デリカシーのない作りであったといわざるをえない。

 86年8月に、民主化運動で犠牲になった学生や労働者などの父母を中心とした遺族会が結成されました。遺族たちは、民主化や統一を求める運動に参加して亡くなった、わが子に貼られた「アカ」の汚名をすすぎ、その名誉が復権されることをめざして、自らデモの先頭に立ちながら死んだ子どもたちに代わり民主化運動を闘ってきた人たちです。私は25年前からこの遺族会に出入りして、韓国民主化運動の歴史的展開を死生観の視点から見つめてきました。番組に登場した李韓烈のオモニ・裵恩心さんも25年前からよく知っています。私の本の中には、彼女がふと漏らしたつぶやきや、雑談中にポロリと発した言葉がいくつか出てきます。その一つに、実に胸をえぐられる言葉があります。

 光州抗争の犠牲者や、ある特定の死者たちだけが民主化の実を享受して、名誉復権され、称揚されるということは、その背後で歳月をかけて累積してきたはるか多数の犠牲者たちの死を「無駄に盗んだ」ことであり、「泥棒みたいなもの」だという指摘です。

 皮肉なことに、「アナザーストーリーズ」での李韓烈の描かれ方は、光州抗争から6月抗争へと至る7年間に累々と屍を積み上げてきた「犠牲者たちの死を無駄に盗んだ」ことにほかならなったと思います。あのような切り取り方では、李韓烈の母親自身がまるで「泥棒みたいなもの」ではありませんか。

 遺族会の親たちは、わが子の死が世間でどう受け止められているかに、とても敏感です。誰しも愛するわが子の死が世のために少しでも役に立ったと信じたい、そう信じることで喪失感からくる悲嘆の感情と折り合いをつけようとするからです。だが実際のところ、その死にざまが世間の注目を集めたり、歴史の分水嶺と意味づけられたりした者たちは大きく取り上げられる一方、そうはならない死者たちもいる。親たちにしてみれば、わが子の存在はそれぞれにかけがえのないものです。すると、取り上げられ方の軽重によって、これまで苦楽をともにし、一致団結して闘ってきた親たちの間に、微妙なすきま風が吹くようになります。やがて心理的距離感から疎遠になったり、ちょっとした意見の食い違いで分裂したりといった事態が生じる。こうして親たちの高齢化もあいまって、遺族会は弱体化を余儀なくされるのです。

 私は李韓烈のオモニだけを取り上げて、それ以前に払われた数多くの犠牲について一言も触れなかったあの番組の構成に、心から不快感を覚えます。李韓烈へと至るまでに犠牲を払った無数の死者の親たちを傷つけ、同時に「犠牲者たちの死を無駄に盗んだ」「泥棒みたいなもの」という自ら発した言葉が返す刀となり、李韓烈のオモニを傷つけるのです。焼身、割腹、拷問、殴打などの目を覆うような無惨な姿でわが子を見送らざるをえなかった経験は、親たち一人一人に深い「心の傷」を刻印します。特定の死者ばかりを差別化して取り上げることは、終生癒えない「心の傷」を抱えて生きながら老いてゆく親たちに、さらなる分裂と弱体化の芽をもたらす仕打ちです。

 たとえ故意ではなかったとしても、「無知」は罪でしかありません。番組制作者は、なぜ、この親たちの心の機微をもっと謙虚に、丹念に深堀りしようとしなかったのでしょうか。

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遺族会で、民主化運動犠牲者たちの遺影を背に。筆者の右側が李韓烈の母・裵恩心さん。

 

文益煥牧師の弔辞(1987年)―死者たちの名前を呼ぶ

 1987年7月5日に息を引き取った李韓烈の葬儀は9日に、「民主国民葬」として執り行われました。

 以下は、延世大で行われた永訣式で文益煥牧師が詠んだ弔辞の冒頭、李韓烈に至るまでの民主化運動犠牲者たちの名が読み上げられた部分です。

 

「(犠牲者は)全部で40名余りになりますが、私にはすぐに25人の名前しか出てこなかったので、その25人の名前を書き留めて参りました。もし漏れている名前があったら、私が全部呼び終えてから、ここにいる誰かが立ち上がってその名前を呼んでください。」

こう言い置いてから、文牧師は書き留めてきた25人の「烈士」の名を一人ずつ、腹から絞り出すような大きな声で、長く長く尾を引きながら読み上げていきます。(*括弧は死亡年)

全泰壹烈士よーーー!(1970)

金相真烈士よーーー!(1975)

張俊河烈士よーーー!(1975)

金泰勲烈士よーーー!(1981)

ファン・ジョンハ烈士よーーー!(1983)

金宜基烈士よーーー!(1980)

金世鎮烈士よーーー!(1986)

李載虎烈士よーーー!(1986)

李東洙烈士よーーー!(1986)

金景淑烈士よーーー!(1979)

チン・ソンイル烈士よーーー!(1986)

カン・サンチョル烈士よーーー!(1986)

宋光栄烈士よーーー!(1985)

朴永鎮烈士よーーー!(1986)

光州2000余 英霊よーーー!(1980)

パク・ヨンマン烈士よーーー!(?)

金鍾泰烈士よーーー!(1980)

朴恵貞烈士よーーー!(1986)

ピョ・ジョンドゥ烈士よーーー!(1987)

皇甫ヨングク烈士よーーー!(1987)

朴鍾萬烈士よーーー!(1984

洪起日烈士よーーー!(1985)

朴鍾哲烈士よーーー!(1987)

オ・ドングン烈士よーーー!(?)

キム・ヨングォン烈士よーーー!(1987)

李韓烈烈士よーーーー!

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%B3%B0%E5%A3%B1 

 死亡年も、学生運動か労働運動かの別も順不同ですが、とにかく李韓烈の名が読み上げられる前には、実にこれだけの犠牲者(それでも40数人中の25人にすぎない)が存在したのだという前史が明示されます。また、このリストには、李韓烈の、光州市民の、25人の犠牲者の死を意味づける、1970年11月13日の労働者・全泰壹の「政治的他殺」を原点とした歴史意識が投影されています。

 このことを最もよく表わしているのが、「疑問死」(元運動圏学生の兵役中の不審死など)の真相究明と犠牲者の名誉回復を求めるキャンペーンのため、90年代半ばに遺族会が作成したポストカード(*写真)の図案です。朝鮮半島全体が70年以降の民主化運動における犠牲者たちの顔で埋め尽くされています。軍事独裁政権が国を支配し、民主主義が抑圧されてきたのは、分断がもたらした社会の歪みのゆえであり、民主化運動における犠牲死はそうした矛盾の象徴である、とする考え方です。そして分断の歪みの最たる出来事が光州抗争と位置づけられているのです。

(*光州抗争を起点として、どうしてそのような考え方、歴史意識が生まれるに至ったかは「荻上チキのsession-22」

www.tbsradio.jp

という番組でなるたけ詳しく解説しているので、ぜひそちらをお聴きください。)

 1980年の光州抗争が韓国民主化運動の原点であり、87年の6月抗争はそこからもたらされた結実である、ということは、「アナザーストーリーズ」でもちゃんと描かれています。しかし、もう一つ重要なことが捨象されています。それは光州での惨劇が、光州の人びとをして、その後の民主化運動勢力をして、分断状況に起因すること、もっと生々しくいうと、全斗煥の新軍部が米国を後ろ盾にすることで(米国との共同正犯により)故意にもたらされたことに、気づかせるきっかけになったという点です。

 ここに新たな歴史意識が生まれます。新たな眼鏡で改めて5・18より遡って過去を振り返った時、民主主義の抑圧として表出する分断状況の矛盾が再発見され、これに抗った初めての犠牲者として、ソウル平和市場で勤労基準法の遵守を訴えて焼身自殺を遂げた裁縫工・全泰壹の死の意味が浮き彫りになるのです。

 文益煥牧師がなぜ70年代からの犠牲者たちの名を呼んだのか、これで理解できるのではないでしょうか。

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 さらに重要な点は、「名前を呼ぶ」という行為です。いまだ反共法が生きている分断国家の韓国で、これまで強権的な独裁体制の下では民主化運動勢力は「アカ」や「従北」などのレッテルを貼られ、排除されてきました。加えて伝統的な儒教規範では、天寿を全うできずに死んだ者、親より先に死んだ者、普通でない死に方をした者、まして親からもらった体を著しく毀損して死んだ者などは、一族の系譜からその名を抹消され、葬祭の対象となる祖上神から排除され、寄る辺のない無主孤魂として中空をさまようとされてきました。文牧師が一人一人の民主化運動犠牲者たちの「名前を呼ぶ」のは、民俗学的にいえば死者の魂をこの世に呼び戻す「魂呼ばい」の所作であり、同時に簒奪された非業の死者たちの名を民族史の中に取り戻す、という政治的意味が込められているのです。

 そこでは李韓烈ひとりが英雄ではない、むしろ彼の死は韓国民主化運動史の中に相対化されるものであり、祖国統一をもって完結されるべき民族史にとっては一里塚でしかありません。

 

メディアの責任―権力の(イノセントな?)共犯者でいいのだろうか?

 私は「アナザーストーリーズ」に対して過度な期待はしませんが、文牧師が名前を呼んだ犠牲者たちのうち、せめて朴鍾哲だけは取り上げるべきだったと思います。朴鍾哲の犠牲がなければ、李韓烈の犠牲も直接には起こりえなかったからです。

 ソウル大の2年生だった朴鍾哲は87年1月、指名手配中の先輩の居場所を尋問する目的で警察に連行され、水責め拷問で亡くなりました。本人は学生運動に共感を抱きながらも、運動に参加しないでほしいという両親の懇願を聞き入れて、距離をおいていました。そんな青年が、政治的暴力によって理不尽に命を絶たれた。朴鍾哲拷問事件はこれまで民主化運動とは距離をとり、様子見をしていた一般市民も巻き込んだ汎国民的な独裁政権打倒運動へと波紋を広げたのです。李韓烈の事件はそうした流れの中で、まさに拷問に対する抗議運動のさなかで起こりました。そこを見逃してはなりません。

 朴鍾哲の死を捨象して李韓烈ばかりを取り上げるのは、まさに李韓烈のオモニが言ったように、朴鍾哲の死を無駄に盗むことにほかならないからです。番組であのように描かれることが、オモニの気持ちに沿っていたとは、私には到底思えないのです。

 私は朴鍾哲の両親にもインタビューをし、特に父親の朴正基さんは遺族会で最も頻繁に対話をしてきた一人です。ある時、アボジがこんな言葉をつぶやきました。

 

「死に大きい、小さいは、ないけれど・・・」

 

 87年の民主化宣言を語る時、決まって朴鍾哲と李韓烈の名前ばかりが取り上げられる。しかし、それは文牧師がその名を呼んだ数多くの犠牲者たちの死を無駄に盗むことになりはしないか。そんな忸怩たる思いが、アボジのつぶやきには込められていました。

 「アナザーストーリーズ」が捨象したことのうち、これが何よりも重要な三つ目の視点です。しかも、この朴鍾哲の事件すら省略されてしまった点が私は悔しくてなりません。

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*写真は朴鍾哲。インタビューの後、お礼にと、父の朴正基さんからいただいたもの。

  さる3月のシアタートラムでのシンポジウムで初めて公開した劇作家・朴暁善の20年前の肉声が、「5・18にも問題が多い、遺族会、負傷者会…、我々はそういうものとも闘い続けなくてはならない」と語ったことは、権力が常套的に駆使する「切り崩し」という手段によって拍車がかけられます。「死に大きい、小さいが、ある」かのように煽動するメディアの語り、分断される被害者感情、これに乗じて死者を差異化しようとする政治権力は、どれもが未必の故意の共犯者です。ゆえに、すべからく「闘い続けなくてはならない」対象なのです。

先ごろ、パク・ジュミン議員が、当局が光州抗争の被害者関連団体に対する「切り崩し」を示唆した80年代の文書を発見しました(http://japan.hani.co.kr/arti/politics/28803.html)。

 90年代に入ってからも、光州抗争関連者と事件直後に死をもって抗議した者たちだけが顕彰され、「光州」に殉じた80年代以降の犠牲者の多くは疎外された。2000年代に入ると、民主化運動犠牲者のうちの「疑問死」は名誉回復の対象から外され、それによって遺族会は分裂させられた。このように権力は同じことを繰り返してきました。

 ところで、文書の存在を明らかにしたパク・ジュミン議員とは、セウォル号遺族を支えたパク・ジュミン弁護士のことです。2015年の国会議員選挙の時、遺族たちが表立って応援することでパク候補者が心ない誹謗中傷を浴びることがないようにと、着ぐるみ姿で素顔を隠しながら選挙活動を手伝う父親たちの姿を記事で読んだことがあります。これは遺族に対する国民感情の亀裂に付け込んだ当時の政権が、陰で煽ったことでもあります。権力は同じことをたくらみ、繰り返すのだと、その時にも思いました。

 重ねて言いますが、被害者感情国民感情に亀裂を入れることで運動を弱体化させることは、古今東西の権力が繰り返し行使してきた常套手段です。これにメディアも(意図する、しないにかかわりなく)加担してきました。そのことに対する責任はたとえ海外のメディアでも免れるものではないと、私は考えるのです。はたして「アナザーストーリーズ」の制作陣にそこまでの覚悟はあったのでしょうか。

 

文在寅大統領の「魂呼ばい」(2017年)

 文益煥牧師の弔辞から30年後、私はもう一人の文(ムン)が、光州の国立5・18墓地で行われた記念式典で、感動的な「魂呼ばい」をする映像を目の当たりにしました。

 李明博朴槿恵は毎年、記念式典への参加を見送り、光州発祥の運動歌謡「ニムのための行進曲」を墓前で斉唱することも禁じてきました。

 文在寅が大統領に就任して初の5・18、追悼辞の中で「“光州”のために闘った烈士たちを称えたい」として、4人の名が語られました。この様子はYouTubeにアップされており、文大統領の語りは28秒頃からです(https://www.youtube.com/watch?v=h5VFZkIxD_c)。

 

全南大生、朴寛賢(1982)

労働者、ピョ・ジョンドゥ(1987)

ソウル大生、趙城晩(1988)

「光州は生きている」と叫び、崇実大学学生会館の屋上で焼身自殺した25歳、崇実大生、パク・レジョン(1988)

 

 

 一人一人の名をゆっくりと噛みしめるように語っています。もちろん、この4人だけを特別視したい意図ではありません。文牧師が咄嗟に思い出した25人の名を書き留めてきたように、文大統領もそのようにしてこの4人の名を呼ぶことになったのでしょう。「“光州”のために闘った烈士たちを称えたい」とする追悼辞では、最後のパク・レジョンに付された修飾辞こそが、全ての犠牲者たちに共通した称えられるべき功績なのです。猛火に包まれて「光州は生きている」と叫んだパク・レジョンは朴寛賢であり、ピョ・ジョンドゥであり、趙城晩であると同時に、「光州」に殉じた全ての死者たちでもあるわけです。

 この追悼辞が意味するのは、1987年の民主化宣言でこの国の民主化運動は完結したわけではない、という歴史認識です。また、そこにあえて李韓烈の名をあげないことで、「死に大きい、小さいは、ない」ということが暗示されます。私には、文大統領のこの追悼辞が、分断されたものを再び一つに取り戻すための「魂呼ばい」のように響いたのでした。学生も労働者も、ソウルも光州も、民主化宣言の前も後も、「光州は生きている」という歴史意識を軸として、全ての犠牲者たちの死の意味は統合されるということです。

 その後の政権運営、ことに南北和解に向けた努力などを見守りながら、文大統領に対して抱いたこの直観はあながち的外れでもなかったな、と思えるのです。

 

水に落ちた犬を打て

 ただし、さしもの文在寅大統領に関しても、朴暁善が遺した洞察から学ぶべき教訓が一つだけあります。朴氏はこう言いました。

 

「予備検束されたものにも5・18はわからない。」

 

 文在寅がその運動歴のため、5月17日の非常戒厳令で予備検束されたことは有名な事実です。

「5・18を知らない」金大中が赦免した全斗煥は、2017年に自伝を出版し、その内容が物議をかもしています(http://japanese.joins.com/article/716/227716.html)。 

japanese.joins.com

 「中央日報」(2017.5.14)によれば、

  全元大統領は3日に出した『全斗煥回顧録』で自身を「5・18の治癒と慰撫のために犠牲になった」と表現した。 

  また「5・18の衝撃が消える前に大統領になったのが原罪になり、十字架を背負うことになった」とも主張した。自身が5・18直後の大統領になったことで5・18の傷を治癒する犠牲になったということだ。

  

 とのことです。

 この物言いは96年に裁かれた自身の罪状をひっくり返す企てです。そればかりか李順子夫人までもが自伝『あなたは孤独ではない』を出版し、「私たち夫婦も実際、5・18事態の悔しい犠牲者」と自己憐憫してみせたのです。泉下の金大中は、自分がこの男に与えた特赦のせいで、5・18の犠牲者たちが二度殺され、生き残った者たちの傷口がさらに押し広げられるなぞ、想像もつかなかったでしょう。

 今年の5・18関連記事を読むと、全斗煥は「射撃命令はしていない」と、よりあからさまに事件への関与を否定しています。

 この倒錯した状況を今後どのように収束させるか、また朴槿恵前大統領に対する司法の判断をこの先も徹底できるのかどうか、私は文大統領の姿勢を凝視したいと思っています。

 道庁での死闘から生還した元市民軍の朴暁善の目には、金大中も文在寅も「5・18を知らない」という点では五十歩百歩だと思います。私は文大統領を好意的に見ている一人ですが、亡き劇作家が「クミの五月」に込めた貴いメッセージとして、この部分に関してだけは厳しい目で見守りたいと考えています。

 最後に、魯迅の随筆「『フェアプレイ』はまだ早い」より、以下のくだりを引用しておきます(竹内好編訳『魯迅評論集』岩波文庫より)。

 

 話にきくと、勇敢な拳闘士は、すでに地に倒れた的には決して手を加えぬそうである。これはまことに、吾人の模範とすべきことである。ただし、それにはもうひとつ条件がいる、と私は思う。すなわち、敵もまた勇敢な闘士であること、一敗した後は、みずから恥悔いて、再び手向かいしないか、あるいは堂々と復讐に立ち向ってくること。これなら、むろん、どちらでも悪くない。しかるに犬は、この例を当てはめて、対等の敵と見なすことができない。何となれば、犬は、いかに狂い吠えようとも、実際は「道義」などを絶対に解さぬのだから。まして、犬は泳ぎができる。かならず岸へはい上って、油断していると、まずからだをブルブルッと振って、しずくを人のからだといわず顔といわず一面にはねかけ、しっぽを巻いて逃げ去るにちがいないのである。しかも、その後になっても、性情は依然として変らない。愚直な人は、犬が水に落ちたのを見て、洗礼を受けたものと認め、きっと懺悔するだろう、もう出てきて人に噛みつくことはあるまいと思うのは、とんでもないまちがいである。

 要するに、もし人を咬む犬なら、たとい岸にいようとも、あるいは水中にいようとも、すべて打つべき部類だと私は考える。

 

 朴暁善氏の遺言が意味するのは、まさに「水に落ちた犬を打て」ということです。そして「道義」を解さぬ「犬」に喩えられるのは全斗煥だけではない、このことが文在寅大統領に問われているのだと思います。もちろん、私たちの国、この国の政治にとっても無縁であるはずがありません。