亡き劇作家が「クミの五月」に込めたもの(2)〜5・18は終わらない〜

「アナザーストーリーズ」について

 6月12日、BS-NHK

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光州事件特集が放映されました(18日再放送)。遡ること10年前、映画「光州5・18」の日本公開に先立ち、光州事件を扱ったドキュメンタリー番組を作りたいと民放局から協力依頼を受けましたが、どこかから圧力があったとかで立ち消えになってしまいました。2010年6月、光州抗争30周年を期してBS-NHK

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を放映した際には、制作に協力しましたが、じっくりと時間をかけながら徹底的に水面下で、局内でも秘密裏に事が運ばれたと聞いています。プロデューサーの話では、関係者たちがまだ健在で、生半可に光州での経験を「歴史化」できる段階にはなかったことと、それぞれに思惑を帯びた人びとが多方面から足を引っ張りあい、企画を頓挫させる危険性があったからだといいます。その意味では、まるで

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の日本公開に照準を合わせたかのようなタイミングで、「アナザーストーリーズ」の放映が迅速になされたことは、すでに40年近い歳月と、文在寅の民主化政権を誕生させた「キャンドル革命」をへたことで、5・18にまつわるもろもろの足かせと禁忌が薄まったことを示しているのでしょう。

 何にせよ、情報の風通しがよくなるのは喜ぶべきこと。しかし私にはこの番組を「見たくない」という一抹の思いもありました。視聴中は新たな証言者たちの登場とその突っ込んだ内容に感心し、限られた時間枠の中でよくまとめたなと、どちらかといえば肯定的に眺めていました。ところが番組を見終わって、しばらく間をおくにつれ、じわじわと否定的感想の方が勝ってきたのです。ちょうど前回のブログ記事-インタビューからわずか二か月後に亡くなった「クミの五月」の作者・朴暁善氏の「肉声」を20年ぶりに聴き直しながら考えたこと-を書いている最中でした。ここで朴氏が語った言葉に立ち止まらずして、韓国の「今」は理解できないのではないかとさえ思いながら、改めて「アナザーストーリーズ」のことを思い返すと、なんともいえずモヤモヤするのです。

 一言でいえば、「光州5・18」「タクシー運転手」から、いきなり「1987」なのではなく、また1987年6月29日の「漸進的民主化」と30年後の現在の民主化とは似て非なるものだということ、それでもなお「5・18は終わらない」ということなのです。番組ではそこの部分がきれいさっぱりと削ぎ落とされ、妙にまとまりのよい「感動作」に仕上がっていました。私の心には、ずっとざらざらしたものが残りました。

 これから数回にわたって、「5・18は終わらない」とはどういうことかを、ひとつひとつあげていきながら、(専門家としてのプライドをかけて)この番組に対しての批判的検討を加えていきます。もちろん限られた時間枠での放送ですから、“ないものねだり”だという誹りは甘んじて受けましょう。けれども番組が「語らなかったこと」の数々は、光州抗争の歴史を知らない一般の視聴者にとって、それが「無かったこと」として認識されるのと同然なのではないでしょうか。厳然としてあった/ある事実が、そのまま「無かったこと」として人口に膾炙するなら、それは歴史に対する冒涜だと思うのです。だから私はそこの部分を補うような話を、これから数回にわたって紹介していこうと考えています。

 

「心の傷」と生きる人びと

 今から16年前のこと。光州抗争20周年をすぎて、光州が「人権聖地」としてセルフ・ブランディングを整えつつあった頃、Jという人物と出会いました。光州・全羅道の歴史と文化に根ざす観光資源を探求し、実践に移す活動をしていました。光州市が主導した90年代の観光事業は、光州を「義郷」と呼び、5・18戦跡地巡礼を前景化させるものでしたが、Jさんの著作では5・18関連史蹟が光州・全羅道の観光資源の一つとして相対化され、被差別性や悲劇性、抵抗の伝統など、光州・全羅道を表象する定型句がほとんど使われていませんでした。私はそのことに興味を抱き、すぐさま本のプロフィールに記載された著者の職場にインタビュー依頼の電話を入れました。

 光州のオフィスでひととおり話を聞き、最後に「5・18の時は何をされてましたか?」と訊ねると、Jさんは「中学生でした」と答えてから、問わず語りに次のようなエピソードを聞かせてくれたのです。

 

「当時、私は郊外に住んでいました。ある時、見知らぬ大学生が家にやって来て、“光州が大変なことになっている!軍人が市民を殴打している。このことを多くの人びとに伝えて下さい!”と訴えました。私は“軍人は国民を守るべき存在なのになぜ?”と、この学生の話を疑問に思いました。

 中学を卒業して、光州市内の高校に進みました。

 高校の友達に、姉を5・18で亡くし、全南大でその遺体写真を目にしてからというもの夢遊病者になって、夜ごと望月洞墓地までふらふら行ってしまう、という友人がいました。それを見て、私は初めて、“ああ、これが5・18なのだ・・・”と痛感したのです。

 87年に大学に進み6月抗争を経験したのをきっかけに、労働運動の道に進もうかと本気で進路に悩みました。そんな私に教授が、“それぞれに相応しい社会参与の役割がある”と助言してくれた。それで、観光学の道に進んだのです。」

 

 まさに「人に歴史あり」だ、と驚嘆させられました。Jさん自身は5・18を経験したわけでも目撃したわけでもなく、また縁者に犠牲者が出たわけでもなさそうです。Jさんが従事する観光研究と観光事業には、表向きは5・18の惨劇の影がまとわっていないように見えます。それでも高校時代の友人を通じて、そして朴鍾哲李韓烈という二人の学生の犠牲をきっかけとした87年の6月抗争を経験する中で、彼自身の生き方が問われたこと、それにより「社会参与(アンガージュマン)」としての観光学に携わってきたことは、まぎれもない事実なのです。

 朴暁善氏が「5・18は終わらない」と語る時、Jさんの友人が負ったような「心の傷」を念頭においていたことは指摘するまでもないでしょう。実際、朴氏の五月劇で「クミの五月」と並んで有名なのが、5・18で心病んだ女性を主人公とする「牡丹の花」という作品です。10日間の惨劇の中で、Jさんの友人のような経験をした人びとは、それこそ数えきれないほどいたはずです。

 長らく沖縄で臨床に携わった精神科の蟻塚亮二医師は、沖縄戦経験者の中に長じてから晩発性PTSDに苛まれる人たちが多いことを発見しました(『沖縄戦と心の傷』『戦争とこころ』参照)。そういえば、奇しくも今日は6月23日で、沖縄戦終結からちょうど73年にあたる日です。もう73年、いえ、「心の傷」と生き続ける人たちにとっては、まだ73年にしかならない。73年前の出来事はつい昨日のことのようにフラッシュバックし、73年前の痛みを今の痛みとして生きている。光州抗争から流れた今日までの月日は、そのわずか半分にすぎません。

 沖縄には、73年の月日が流れても癒えることのない「心の傷」と生きる人びとがいる。光州にも同じような「心の傷」と生きる人びとが、その半分にしか満たない歳月を、今日も人知れずひっそりと生き続けているのです。

 これは「アナザーストーリーズ」が伝えなかったことの一つ目です。